本集简介
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请多关照。
よろしくお願いします。
那么,今天的特别节目我们邀请了一位嘉宾,想听听他的故事。
ではでは、本日の番外編はゲストをお招きしてお話を聞いていきたいと思います。
马上为大家介绍一下。
早速ご紹介しましょう。
这位是实验寺院报道寺的总院长松波龙玄先生。
実験寺院報道寺総院長松波龍玄さんです。
拜托了。
お願いします。
请多关照。
よろしくお願いいたします。
欢迎来到福冈。
ようこそ福岡に。
不,确实如此,您从京都远道而来福冈。
いや、そうですよ、福岡まで京都から来ていただきました。
深感荣幸。
光栄です。
好的,虽然您远道而来,首先由我来简单介绍一下个人履历。
はい、来ていただきましたけども、まずは僕の方から簡単にプロフィールですね、紹介します。
学生时代接触武道与佛教,在中国北京进行五年武术修行后,于真言律宗总本山西大寺担任指导、结行,并授予传法灌顶。
学生時代に武道と仏教に出会い、中国北京で5年間の武術修行を積んだ後、真言律宗総本山西大寺で指導、結行、そして伝法灌頂を授法。
这个名称呢,可以理解为正式成为僧侣的意思,大概就是这种程度的含义对吧。
これなんかそういう名前の、これはあれですよね、正式にお坊さんになったみたいな意味で捉えれば、その程度の意味ですよね。
就是这么回事。
ってことですね。
是的,不仅限于日本佛教,还曾师从缅甸和西藏的高僧,钻研密教冥想法。
はい、日本仏教にとどまらず、ミャンマーやチベットの高僧にも師事し、密教の瞑想法を探究。
致力于探索现代社会的佛教实践,在京都创立了实验寺院・宝塔寺。
現代社会に生きる仏教を模索し、京都に実験寺院・宝塔寺を設立ということですね。
请多关照。
お願いします。
虽然信息量已经很大了,但今天请来龙玄先生,我是想办一场佛教哲学交流会。
すでに情報量が多いですけれども、今日は まぁ、龍玄さんを呼んでですね、仏教哲学会にしたいなと思ってるんですよ、今まで。
所以古典电台之前从未请过佛教人士,这次是真正请来了僧人呢。
だから、古典ラジオでは仏教の方は呼んだことないから、本当に坊さんに来ていただきまして、という感じですね。
不过我们的交情啊,一直都很长久呢。
でも付き合いはね、ずっとね、長くしてる。
大约四年前,在做空海和最澄系列节目时,我第一次接触佛教哲学,当时看书觉得太深奥难懂,虽然觉得非常精彩,但无法有更深的理解。
4 年ぐらい前から、あの空海、最澄のシリーズをした時に、僕が仏教哲学に初めて触れ、意味不明すぎ、まぁまぁ、本で読んだ時に素晴らしいなとは思ったものの、それ以上の理解ができない。
我确信这绝对无法通过书本实现,在寻找那位僧侣时——虽然这么说有点那个——就是能教导我的人。
これは絶対に本では無理だという確信を得て、そのお坊さんを探してた時に、そのお坊さんを探してた時にってあれですけど、教えていただける方。
当时通过一位高中生的介绍,然后,去了之后发现非常厉害。
当時高校生だった方から紹介していただきまして、あの、行ったらすごかったっていう。
所以这已经有四五年交情了呢。
だから4年、5 年ぐらいのお付き合いになるんですね。
从那之后大概12年左右其实没怎么联系,但这3年来,其实我每月都去京都,介绍各种各样的商务人士等等。
それから本当にまぁそこから12年ぐらいはなんかそんなに連絡してなかったですけど、ここ3年間ぐらい、毎月、実は京都に通って、あらゆる そのビジネスパーソンたちをですね、紹介したりだとか。
我之所以说商务人士,是因为我觉得现在商务人士正需要这种哲学。
僕なんでビジネスパーソンって言ってるかっていうと、まさに今ビジネスパーソン必要そうな哲学だなと思って。
虽然守护者也需要,但特别是那些看似非常成功的商务人士。
番人に必要なんですけど、特にビジネスパーソン必要そうだななんかめちゃくちゃ成功したビジネスパーソン。
有很多人虽然有钱,却深陷痛苦。
お金持ってるけど、苦しんでる人たちいっぱいいるんで。
那些被佛教术语称为'苦'所困的人,自以为很幸福,实际上却痛苦不堪,这样的人比比皆是,他们确实活得很辛苦。
苦しみね、苦にまみれてる、仏教用語のね、くねねにまみれてる、あの、自分ではすごい幸せだと思って、めちゃくちゃ苦しんでんな、みたいな人たちがたくさんいて、その人たちに苦しいですよね、確かに。
所以我就带着他们'那就出发吧'这样的心态前行。
じゃあ行きましょうっつって行ってる。
原来如此,我自己也有点这样呢。
なるほど、ちょっと自分もそうですよ。
这有点像小型应援活动呢。
ちょっとした推し活だね。
确实,昨天河部先生的聚会刚结束,虽然连日录制很忙,但我还是带他去了,在那里相遇后,现在我每个月都在持续学习。
確かにね、あの河部さんのね会が昨日ありましたから、収録連日やってますけども、河部さんも連れていきましたけど、そこで出会って、毎月僕は学んでるんですよ。
是的。
ですね。
所以现在,你们是把它当作一个类似学习会的据点来运营吗?
だから今、拠点としてもなんか勉強会みたいにやられてるんですか。
学习会的话,我们正在全面开展宗教学习会,全面指的是三大宗教都在进行,也就是伊斯兰教、基督教和佛教,我们在公司内部举办宗教学习会。
勉強会は宗教勉強会を全部やってまして、全部っていうのは、3大宗教全部やってて、イスラム、キリスト教、そして仏教っていうのを宗教勉強会を 社内でやってるんですね。
公司员工可以参加这个学习会,我们正在做这件事,我认为要理解当今世界,宗教确实是无法回避的,尤其是三大宗教,基督教。
法人クルーはそれ参加できるんですけど、あの、やってまして、僕、その、今の世界を理解するために、宗教、本当に避けて通れない、特に三大宗教って思ってるんですけど、キリスト教は。
你看,那位在番外篇中出场的千叶老师。
ほら、あの番外編で出ていただいた千葉先生。
现在隶属于普林斯顿大学的千叶老师。
プリンストン大学に今所属している千葉先生。
说到普林斯顿,那可是美国基督教新教最具权威的大学呢。
プリンストンって言ったら、キリスト教プロテスタントの アメリカの本当に最も権威ある大学ですね。
神学系的老师那里学习,有两位伊斯兰教的老师,一位在沙特阿拉伯大学,另一位教学非常出色。
の神学科の先生から学んでますと、イスラムの先生2人いて、一人サウジアラビア大学で、もう一人はすごく教えるのがうまい。
作为商业人士也非常活跃且实践经验丰富。
実践的な非常にビジネスパーソンとしても活躍してらっしゃる。
虽然不是宗教领袖,但作为实践者非常活跃的印度老师那里学习,而另一方面,佛教可能算是比较高级的。
宗教指導者ではないが、実践者として非常に活躍していらっしゃる インド人の先生から学んでるんですけれども、一方であの、仏教はですね、あの、高級としてるかもしれない。
并不是所谓大学所属或在那里学习过,而是向龙源先生学习,这确实涉及很多方面,比如高野山、比叡山等地方。
その、いわゆるそういう大学所属とか、そこで学んだとかいうわけでもない、その龍源さんから学んでるんですけど、これはやっぱりいろんな、それこそね、高野山とか比叡山とかあるじゃないですか。
是的,有的。
はい、ありますね。
最具权威性。是的,没错。
最も権威がある。そうだね。うん。
而龙玄先生,您属于真言律宗,是高野山的传承谱系,虽然并非直接向高野山的高僧学习,但也是在与众多僧侣交流的过程中。
であり、龍玄さん、真言律宗なんで高野山の系譜にいらっしゃるけれども、その高野山の高僧とかから学んでるわけではないですけれども、それはまぁ、その、いろんなお坊さんに会ってきた中で。
归根结底还是佛教哲学本身。
やっぱりシンプルに仏教哲学ですね。
在传达这一点上,我认为龙玄先生确实非常出色,在我看来真的很了不起。
っていうものを伝えるっていう面において、やっぱり龍玄さんがすごい、僕から見て素晴らしかったっていう。
所以,那个,虽然我其实没有资格评价,但感觉完全是不同层次的存在,让我连连感叹'原来如此'。虽然用'层次不同'这种说法可能有点失礼
ので、あの、本当に僕が評価するような立場でもないんですけれども、レベルが違ったというか、なるほどなるほどいうので、レベルが違ったって言ったら多分失礼になっちゃうかもしれないんですけど。
深井君果然是这样
深井君がやっぱそう。
因为在我看来实在太出色了,很自然地就会想介绍更多人认识龙玄先生
すごく僕から見て素晴らしかったんで、もうナチュラルに龍玄さんにいろんな人を紹介することになったという。
而且他本身是修行者,确实身体力行在修行,所以和那些学者教授不太一样,能说出很多让人醍醐灌顶的话。还有就是佛教的,那个
で、修行もしてる実践者であられるので、修行もしてらっしゃるんで、その学者さんとも、やっぱりちょっと違う、この身に染みる話してくれるなっていうのと、あと、やっぱり仏教の、やっぱ。
问与答的形式确实存在呢
問答っていうのがあるんですよね。
我们这些在籍的,像我们这样没有出家的人,也没有在修行,
その、僕たちが在籍みたいな、出家してないじゃないですか、修行も別に。
像我们去龙玄さん那里时会被带着冥想,但并不是真正的修行
そんなね、龍玄さん行った時に瞑想とかさせてもらいますけど、修行してるわけでもない。
唉,日常生活中,简单经营着企业,完全是个俗物,但这样的自己,那个所谓的,这个该怎么办才好呢
まぁね、日常で、日常では、シンプルに経営とか、その俗物にまみれてますけども、まみれた自分が、そのいわゆるなんかこう、これってどうしたらいいんだっけ。
当遇到这类烦恼时,从佛教角度来看会怎么处理呢?
みたいなことに悩んだ時に、これって仏教から見たらどうなんですか。
像这样的问题我都会请教
みたいなことを聞くんですよ。
原来如此
なるほど。
于是作为以佛教哲学为基础的实践者,龙玄先生就会给出回应
したら、仏教哲学を ベースとしたその実践者として、龍玄さんから答えが返ってくるみたいな。
这果然该怎么说呢,真的非常棒非常感谢,我觉得这个特别好
これがやっぱりそのなんていうかな、めっちゃ良き良きありがとうございます、これがめっちゃいいなと思ってて。
明白了明白了
なるほどなるほど。
能提供这种指导的人,毕竟学者是做不到的——虽然直接说做不到可能有点失礼——但学者本身也不是从事这方面工作的
これをしてくださる方としても、やっぱりそれって学者さんにできないんで、できないって言い切ったらちょっと失礼なのかもしれないんですけど、それをされる立場でもないじゃないですか。
确实呢,因为学者是研究者,是做学术研究的
そうですね、研究者ですから、学者さんは。
所以,作为那样,作为那个老师,我们既在学习,也在托着腮帮子(思考)
なので、そういう、それとして、その先生として、いろいろ学んでるしも、頬杖もさせていただいてるっていう。
原来如此,大概就是这样
なるほど、まぁ、こんな感じで。
好的,非常感谢
はい、ありがとうございます。
我啊,和那个和尚游戏结缘了呢
僕、あの坊主ゲー仲間しましたね。
可以称呼为和尚游戏伙伴吗
坊主ゲー仲間って呼んでいいの。
既没有托腮思考,也没有学习佛教,而是一起玩了和尚游戏呢
頬杖もせず、仏教についても学ばず、坊主ゲーを一緒にしましたね。
是和尚游戏伙伴
坊主ゲー仲間です。
玩得很开心
楽しかったです。
不是那样的,今天我想好好听听关于佛教的话题。
そうじゃなくて、今日は仏教の話をたっぷりと聞いていきたいと思うんです。
虽然不知道总共会有多少回,但在我们平时进行的问答中,这三年来我已经收获了一些觉得应该分享给大家的精华内容。
全何回になるかわかんないんですけど、普段僕たちが問答させてもらってる中の、これは届けた方がいいなというエッセンス何個か、すでにこの3年間で僕、いただいているんですね。
这真的是杰作啊,或者说光是知道这个就能让人变得非常充实。
これはほんとマスターピースだなというか、これを知ってるだけでめちゃくちゃ豊かになれるな、みたいな。
如果能够做到的话,我希望在这个节目中能把这些内容打包分享给各位听众。
それができれば、この放送の中でパッケージとして皆さん皆さんに届けていければなというふうに思ってるんですよね。
我很期待呢。
それ楽しみだよ。
我倒是相反,和龙玄先生见面次数不多,只见过一次,所以很期待。
僕は逆にあんまり龍玄さんと、そうだよね、一度しかお会いしたことがないので、楽しみなんで。
虽然刚才说了商务人士,但当然不限于商务人士,希望各种各样的人都能来听这一期节目。说到基督教、佛教,接下来就是伊斯兰教了,必须最为谨慎对待。
まぁ、さっきビジネスパーソン って言いましたけど、ビジネスパーソンに当然ですけど、限らず、いろんな人たちに聞いてほしいなっていうのが今回の回で、まぁやっぱりキリスト教、仏教って言ったら次はイスラムですね。最も慎重にやら。
我认为必须谨慎对待的伊斯兰教,第二次则是佛教。
ねばならぬと僕が認識しているイスラム、2 回目は仏教ということでですね。
虽然佛教是宗教,但它有根本哲学的部分,我想先学习这个部分。
で、まぁ仏教って宗教なんだけど、その根本哲学のところがあるんで、その部分をまずは学んでいきたいなと思います。
那么今天请多关照。
ということで、今日はよろしくお願いします。
可能会持续很长时间,关于从哪个切入点开始讲佛教这个话题,其实我多次拜访龙源先生,观察了各种问答环节后得出的结论。
長丁場になると思いますが、どこからこの仏教の話に入るといいのかっていうのは、ちょっと僕は何度も龍源さんのところに行き、あらゆる人たちの問答を見た結果ですね。
我觉得从这里开始切入比较好。
ここがいいんじゃないかなと思ってる入りがあるので、そこから 入ってもらうですけれども、とりあえず座禅組みますか。
完全不是这样。
全然違います。
完全不是这样。
全然違います。
打坐属于禅宗,虽然有很多不同但首先需要了解佛教追求的目标是什么,当它聚焦于痛苦时,痛苦究竟是什么。
座禅は禅宗ですし、いろいろ違うんですけど、まずその仏教っていうのが何を目指しているのかっていうところで、その苦しみにフォーカスしていると、苦しみとは何か。
苦し
苦とは何か、そしてなぜ苦にフォーカスしているのかっていうところから仏教を紹介するとなるほど、なってなりやすいかなと思っているし、まぁ我々全員苦しんでるじゃないですか。
说自己完全没有痛苦的人,恐怕几乎不存在吧,或者说那大概就是佛陀的境界了。
何も苦しんでないですっていう人、多分ほとんどいないっていうか、多分それブッダ。
为什么呢?
なんで。
是啊,那个...如果有人知道请告诉我。
そうだな、あの、いたら教えてください。
很痛苦,非常痛苦...为什么这么说呢,因为从痛苦的定义出发,从这里切入会非常容易理解。
苦しいです、苦しいですはいなんで、そこ、苦しみの定義からあるんですけど、そこから入ってもらうとすごいわかりやすいんじゃないかなって。
从中道哲学这个根本思想入手的话,应该会比较容易理解,我是这么认为的。
そこから中間哲学っていう根本思想に入っていくとわかりやすいんじゃないかなと思ってるんで、そうだね。
另外我个人很想了解释迦牟尼佛的个人原体验是如何发展成哲学的。
あと、個人的にはちょっとそのお釈迦様の原体験とかのところから、どう哲学に派生していったのか知りたいですね。
这个也包括在内。
そこも含め。
我们完全可以畅所欲言提问,正好可以现场进行问答互动,同时与各位听众一起学习交流,所以请尽管提问。
まぁ聞きたいこと我々も全部聞いていいので、まさに問答も目の前でやりつつ、一緒に学んでいけたらな、リスナーさんの皆さんと、と思ってますんで、聞きたい聞きたい。
那么,龙玄先生,首先佛教是聚焦于痛苦的。
じゃあ、龍玄さん、まずその仏教が苦しみにフォーカスしている。
那么,关于'苦是什么'这一点,我们可以从这里开始吗?
で、苦とは何かっていうところからよろしいですか。
好的,那么我想就从这里开始吧。
はい、ではそこからいきたいと思います。
在进入正题之前呢,我觉得有些前提需要先向大家说明。
その本題に入る前にですね、ちょっと皆さんに伝えておくべき前提っていうのがあると思っております。
首先从我的立场来说,当然,我并不能代表整个佛教的立场。
まず私の立場からなんですけど、当然ですけど、僕は別にその全仏教を代表するっていう立場にはないわけですよね。
そもそも'整个佛教'这个概念本身能否成立就是个问题,实际上根本不存在这种统一性。
そもそもその全仏教って、ひとまとまりになるのかっていう問題もあって、全然そんなことはないわけですよね。
另外就像深井先生刚才提到的,我并不是学者。
さらに今、深井さんも言及してくださいましたけど、僕は学者じゃない ですね。
当然,我也不是神秘主义者,更不是什么所谓的信徒。
当然、そのオカルト思考でもないですし、いわゆるなんかそのビリーバーでもないんですね。
虽然作为僧人可能会被质疑'到底在说什么',但我既没有进行信仰活动,也不是那种会拼命祈祷的类型。
もうお坊さんの立場では何を言っとるんだという話ではあるんですけど、別にその信仰をして、ゴリゴリお祈りをしてっていう立場でも僕はないです。
具体来说,我认为佛教本质上是一套哲学体系和思想体系,关键在于如何将其运用于社会,以及个人如何与世界相处以获得幸福——这当然是理所当然的。
どういうことかというと、そもそも仏教っていうのは、僕は哲学体系、思想体系だと思っていて、それを世の中にどう活かすのか、自分自身がどう世界と向き合って幸せに生きていくのかなので当然ですけど。
为此,我们必须认真学习佛教经典中那些严谨的教义部分。
そのためには、やはりその仏教の経理教楽っていうですね、カチッとしたものは学ばなければいけない。
而这正是学者们的专长领域。
で、そこは僕は学者さん。
这里才真正体现了学者老师们的专业价值与职责所在。
そこがまさに 学者の先生たちの面目、役所ですよね。
我们参考着学者们通过研究古籍文献,基于证据整理出的各种学术论文和出版的书籍。
古くからの文献とかをですね、調べていただいて、このエビデンスベースでですね、様々な学術論文とかですね、書籍を出していただいて、そういうものを僕たちは参考にして。
有时还会直接去请教学习。
場合によっては直接お話を伺いに行って学んでいる。
但我的立场毕竟不是学者。
だけど、僕の立場はその学者ではないんですよね。
我终究是一名实践者,或许该说是佛教徒,但我的立场和角色是如何将佛教思想运用在这个世界上、运用在自己身上,让自己和世界都幸福。
私はあくまで実践者、仏教者というべきかもしれないですけど、その仏教思想というものを、この世界に、自分自身にどう使いこなして、自分を、世界を幸せにするかっていうのが僕の立場だし、役割だと。
我认为僧侣就是这样的角色,所以这终究是我作为一名修行者、一名实践者的解读。
お坊さんっていうのはそういう役割だと思っていますので、あくまで一修行者、一実践者の私の解釈ですというところですね。
嘛,因为我这么说,所以佛教就是这样的。
まぁ、そこで僕が言ってるから、仏教はこうだっていう。
希望大家不要将其视为一种完全确定的说法,同时也希望大家能认识到,隆源是基于自己的修行体验等,才这样思考的。
そういう、こう、完全なる確定みたいなのはしないでいただきたいということと同時に、隆源は自分の修行体験とかから、そういうふうに考えたんだなっていうことは、あの、認識していただきたい。
所以,我觉得如果能将其作为一手资料来对待就好了。
だから、一次資料として扱っていただけるといいのかなっていうふうに思うんですね。
另外,关于大乘佛教和上座部佛教的区别,还有隆源先生您这边,属于兼业和密教中的密教对吧。
あとで、その大乗仏教とか上座部仏教の違いとか、あと隆源さん、その 兼業と密教でいくと、密教の方ですよね。
大乘佛教大致分为兼业和密教两大类,虽然之后还会请教密教具体是什么,立场会更清晰,但大致前提是这样。
大乗仏教に兼業と密教って2つ大きく分けて種類があって、密教が何かみたいな話も伺っていって、より立場がそこで鮮明になっていくと思うんですけど、前提としてざっくり言うとそうですね。
是这样的立场,是的,所以,如果能以这种方式来听取我的观点,我会很感激。
そういう立場であると、はい、なので、あの、そういう聞き方をして頂けると僕はありがたいです。
其实,这些宗派之所以会分化,正是从这一点显现出来的。
もう、そもそもこの宗派が分かれていくとかっていうのは、そこから現れているわけですよね。
如果当时只有一种解释,佛教应该就只有一种,而净土宗、净土真宗、真言宗、天台宗等差异的出现,是在各个时代。
もうそこに一つの解釈しかなかったら、仏教っていうのはもう一つしかないはずであって、浄土宗、浄土真宗とかですね、真言宗、天台宗みたいな違いが現れるのは、各時代にですね。
人们进行了各种解读,在自己的修行中发现了这样的真理,并吸引了追随者,经过历史淘汰留存下来的就是宗派,所以必须这样去理解。
そのいろんな解釈をして、自分の修行の中でこうだと見出した方々にフォロワーがついてですね、それが歴史の淘汰を経て残っているものが宗派ですから、そのような解釈をしないとですね。
我不想把佛教变成博物馆的陈列品。
この仏教を博物館の陳列品には僕はしたくないですね。
如果使用了博物馆里陈列的东西会被骂的吧。
博物館に並べられているものを使ったら怒られますよね。
对对,绝对会被骂的,但我还是觉得佛教就是要活用才有价值。
そうそう絶対怒られちゃうんだけど、でもやっぱ仏教っていうのは使いこなしてなんぼだと思う。
我认为它不是应该被供在玻璃柜里崇拜的东西,所以从这个意义上来说,希望大家能理解为实践活生生的佛教是可以有这种想法的。原来如此,谢谢。还有一个,
そのガラスケースの中に入って、なんか崇め立てまつるものではないと僕は思いますから、そういう意味では、生きた仏教っていうのを実践するっていう上で、そういう考え方がありなのかと いう風に聞いていただきたいと思いますなるほどありがとうございます。もう一つ、
是的。
ですね。
首先,'佛教'这个词本身就挺麻烦的。
この仏教っていうまず言葉が厄介なんですよね。
其实呢,大家都说佛教佛教的,我也经常用这个方便的概念,但按照我的分类,实际上我们日常使用的'佛教'一词包含了3+14种佛教。
実はね、みんな仏教、仏教って言って、僕も便利な概念なんで使いますけど、実はですね、この僕の分類的に 仏教には3+14つの仏教っていうのが、僕たちが普段。
我认为先让大家认识到这一点会减少困惑,所以先说说这个。
仏教って使ってる言葉に含まれてるっていうことがあって、ここを認識していただいた方が混乱がないかなと思うので、その話を先にします。
经常有人说佛教否定欲望,对吧?
よくですね、仏教って欲望を否定しますよね。
嗯。
と。
说要舍弃欲望、保持行为纯净,但确实啊,在这个现实社会中活跃的企业家、商务人士们,如果全都舍弃了欲望会怎样?
欲を捨てて清らかな行いをしなさいみたいなことを言うわけだけど、まさにですね、この実社会で活躍しておられる経営者、ビジネスパーソンとかがですね、全部欲を捨てたらどうなるか。
公司会倒闭。
会社が潰れます。
那就意味着无法生存下去了。
生きていけないっていうことになる。
因此,虽然很多企业家对佛教感兴趣,但又觉得无法舍弃欲望,所以认为佛教不适合自己,但这里其实存在误解。
なので、様々な経営者の方とかが仏教に興味はあるけど欲を捨てれないんで、僕には仏教は適さないですっていう方がおられるわけですけど、ここ問題なんですね。
并不是这样的。
そうじゃない。
实际上佛教有1+34种类型,而舍弃欲望只是其中一部分流派的观点。
仏教って実はその1+34種類あって、その欲を捨てるっていうのは、その中の一部なんだという考え方ですね。
实际上是有很大区别的。
実はだいぶ違う。
我想先仔细说明这一点作为前提,首先是根源性的佛教思想,那就是释迦牟尼。
ここをちょっと丁寧に、まずは前提なんでいきたいと思うんですけど、まずは根源のですね、仏教の思想はお釈迦様ですね。
他是2500年前居住在印度北部的一位被称为乔达摩·悉达多的人。
2500 年前、北部インドにおられたゴータマ・シッダールタと呼ばれた方ですね。
据说确有其人。
実在したそうですね。
在这位真实存在的人物在世时,根本不可能有佛经或宗派这些概念。
実在のこの方がいらっしゃった時に、そのお経とか宗派なんてあるわけないですよね。
走在时代最前沿的释迦牟尼,在他之后才出现了佛教这个概念,也就是说释迦牟尼本人就像爵士即兴演奏一样是现场发挥的。
最先端を歩いておられる方、お釈迦様の歩かれた後に仏教っていうものが出てくるわけで、つまりお釈迦様もジャズセッションのようにライブだったわけですね。
他与国王、商人、村民等不同身份的人对话问答,针对各种问题教导人们应该如何思考。
王様だったり、商人だったり、村人だったりと対話をして、問答をして、こういう問いに対して、こういう問題に対して、このように考えるんだと教えてくださった。
这些教导逐渐形成了佛教的雏形。
それがもう仏教になっていくわけですよね。
当时有弟子陪伴在侧,他们牢记着释迦牟尼的问答教诲,在佛陀涅槃后将其记录下来以免遗忘。
隣にお弟子さんとかがいらっしゃって、お釈迦様のその問答をですね、覚えていて、お釈迦様が亡くなった後に、それを忘れないように書き記したわけですね。
这些记录后来就形成了佛经,所以在释迦牟尼的时代根本不存在佛经这个概念。
これがお経というものになっていくわけですけど、だからお釈迦様の時代にお経なんてなかったわけですね。
这个时期在学术上被称为原始佛教时期。
この時代のことを基本的に原始仏教っていう言い方をします。
也就是说,作为教主的佛陀——释迦牟尼当时仍在世,人们可以随时向他请教任何问题。
つまり、その教えの時手であるところのブッダ、お釈迦様がもうそこにいらっしゃるんで、何でも聞けるんですね。
那是个'有疑问随时可请教'的时代,用佛教术语来说,这属于梵语文化圈的特色。
わからないことがあったら聞けばいい っていう時代で、これを仏教っていう言葉に戻りますと、これサンスクリットですね。
还原到最初的语言,被简称为'佛教'的这个词原本是'Buddha-vada'。
もともとの言葉に戻すと、仏教と簡略されているのはブッダバーダという言葉なんですね。
'佛陀'指的是觉悟的人。
ブッダっていうのは、悟った人っていうことです。
就是佛陀。
ブッダですね。
'vada'指的是那个人所说的言语。
バーダっていうのは、その人が語った言葉っていう意味 なんですね。
就是话语的意思。
言葉ということです。
而之所以要发声说话,是因为佛陀为了教化众生才开口说法,所以简译时就被译作'佛的教导'即'佛教'。
で、なぜ言葉を発したかというと、そのブッダは人々を教えるために言葉を語ったんで、だから簡約された時に仏の教えで仏教と訳されているわけですね。
我认为这是个毫无问题的绝妙翻译。
これ、何の問題もない良い訳だと思います。
而关键点就在于这个'vada'。
で、ポイントはこのバーダですね。
传道授法的讲述者正是佛陀本人
言葉の語り手、教えの説き手は ブッダその人。
正因如此才称得上原汁原味
これだからオリジナルですね。
这里就是佛教的根本源头
ここが仏教の根本のソースになります。
所谓加1的这个1指的就是这里
プラス 1 って言ってるこの 1 の部分はここですね。
已经超越常规了
もう別格です。
但问题在于,作为源头的释迦牟尼毕竟是凡人终会逝去
ところがですね、このソースであるところのお釈迦様って、人間だからなくなるんですよね。
圆寂之后遇到不解之处,大家首先会查阅言行录和经典对吧
なくなってしまわれた後、わかんないことがあったら、まずみんなその言行録、経典を見るわけですよね。
即便这样还是难以理解经文含义时,这篇文章到底该怎么解读
それでも解釈がよくわかんない、これどう取ったらいいのこの文章。
这种事情经常发生对吧。
みたいなことはザラに起きるわけですよね。
真让人困扰。
困った。
因为释迦牟尼已经不在了。
もういないんで、お釈迦様。
于是,当时发挥作用的是那些坐在上座、身处高位的长老们。
で、そこで活躍したのが、上座に座られた、高いところにお座りになっておられた長老たちですね。
也就是说,大家都会去请教那些长期修行、备受认可且地位崇高的人士。
つまり、修行をずっと積んでおられて、自他ともに認める高い地位におられた方々にみんな聞きに行くんですよね。
请问这种情况该怎么理解呢?
ここはどう考えたらいいですかと。
或者当遇到经文中没有记载的情况时,自己也会感到困惑不解。
あるいはその経典の中にはないような話 に自分が直面してわかんない。
请问该如何思考这个问题呢?
どう考えたらいいですか。
于是长老们就代替佛陀来教导众人。
それを長老たちがブッダに代わって教えてくれるわけですね。
而这些长老在梵语和巴利语中被称为'长老'(テーラー)。
で、この長老たちのことをサンスクリット語、パーリ語でテーラーと言います。
长老们所讲述和教导的内容,就形成了新的佛教流派——长老部派佛教。
で、テーラーが語ったこと、教えたことで、テーラー・バーダという新しい仏教がここに出現するんですね。
也就是我们常说的南传上座部佛教。
よく いわゆる南方上座部と言われるものですね。
就是现在东南亚地区盛行的佛教。
今の東南アジアに広がっている仏教のこと。
比如泰国、缅甸这些国家。
タイとかミャンマーとかのね。
是的,至今仍然是上座部佛教。
そうですね、今でもその上座部仏教ですよね。
很多朋友可能听过上座部佛教在英语中被称为Theravada Buddhism,这个'Theravada'其实就是巴利语和梵语的音译。
この上座部仏教が英語だとこのテーラワーダ仏教と呼ばれるのを聞いたことある方多いと思うんですけど、このテーラワーダっていうのがまさにこのパーリ語、サンスクリットですね。
长老们的教义。
調理長老たちの教え。
也就是说,这里的时间线已经改变了。
つまり、もうここで時系列変わってるわけですね。
是的,最初是佛陀的教义。
そうですね、オリジナルはブッダバーダ仏の教えだった。
这是最初的源头。
これ、オリジナルのソースですね。
而对此进行解读的,是长老们阐释的教义,所以即便在这个阶段,也已经不是原始的佛教了。
で、これの解釈として解釈をしてくださるのが、テーラーで解かれた言葉バーダだから、この時点でも、オリジナルの仏教ではないわけですよね。
虽然长老们的话语值得信赖,但要说是否准确传达了释迦牟尼的本意和真正想表达的内容,那就无从得知了。
その長老たちの言葉は信頼はできるんだと思うんですけど、でも本当に釈迦様の本意を、本来言いたかったことを正しく伝えてるかって言うと、それは分かりようがないですね。
因此,即便在这个阶段也已经存在相当大的断层。
なので、この時点でも結構な断裂があるわけですね。
随着历史继续发展,针对这些长老的教义,那些深居寺院内部、身份得到保障、能够专心修行的人...
さらに歴史が下ってきますと、この長老たちの教えに対して、それは僧院の奥深くにいてですね、その身分が保証されて、それに専念できる。
在你们的理解中,这样或许没问题,但对于那些没有出家的普通人,比如商务人士来说呢?
あなたたちの解釈としては、それはいいかもしれないけど、じゃあそうじゃない、例えば出家することもしていない普通の、まさにビジネスパーソンみたいな人たちに。
这种思维方式最终会不会变得毫无用处的问题就出现了,对吧?
その考え方って結局役に立たなかったりしないかという問題が出てくるわけですよね。
那么佛教难道只是适用于特定人群的教义吗?当然不是,于是就有持不同意见的人出现了。
じゃあ仏教っていうのはそういう特殊条件にある人にしか適用できない教えなのか、そんなことはないよねっていう人たちが出てくるわけですよね。
这就是大乘佛教。
これがマハーヤーナ。
'大'指的是伟大或宏大的意思。
マハーっていうのは、偉大なるとか、巨大なっていう意味ですね。
'乘'是载具的意思,所以他们自称是能载渡众生的伟大法船,与之相对,长老们的教义则被视为个人专用。
ヤーナっていうのは乗り物っていう意味なので、彼らは、自分たちは、そのあらゆる人を乗せて海を渡れる偉大な 乗り物なんだと、それに対してカウンターとしてですね、その長老たちの教えは、あなた個人用だと。
这种说法带有贬低意味,近来出于避免歧视的考虑已经不太使用这种表述了,但历史上确实存在这样的说法。
それは小さいっていうことで、少女とですね、これちょっと差別的な言い方なんで、あんまりしないようにしようっていうのが近来のですね、考え方ですけど、歴史的にはそういう言い方をしたわけですね。
只在特殊条件下才有意义的事物,其适用范围终究是狭窄的。
特殊条件において意味を持つもの、それはやっぱり範囲が小さい。
并非如此,而是应该抛开这些特殊条件,思考佛陀的本意是否正是要创建一种能普遍适用于所有人的教义。
そうじゃなくて、その特殊条件を外して、普遍的にあらゆる人に適用できる教えっていうのがお釈迦様の本意じゃないのか、と。
也就是说,这终究还是个解读问题。
つまり、やっぱりここも解釈の問題ですね。
确实如此,对于作为源头的佛陀教法,不同的解读方式自然会产生不同的理解。
なるほど、確かにそのソースであるところのブッダバーダというものに対してどう解釈をするのかっていうのは、解釈が違うものが現れてくるわけですね。
这就是所谓的大乘佛教。
これが大乗と呼ばれるものですね。
更进一步说,大乘的哲学体系本身是毫无问题的。
さらにもう一つ、この大乗の中からですね、大乗の哲学は全く問題ない。
非常精妙。
素晴らしい。
正是如此。
その通りだ。
但更重要的是要付诸实践,不要只是高举理念进行理论研究,而是要亲身践行,将这种觉悟真正内化于自身。
ただ、より実践的に行こうよと、その理念だけ掲げて論理研究するだけじゃなくて、実際に自分の体を使ってですね、その悟りっていうものを自分自身にインストールして。
那些真正要在社会中实践运用并付诸行动的人会逐渐出现。
社会に使いこなして、実際にやっていこうよっていう人たちが現れてくる。
这些人最终就形成了所谓密教的立场——也就是我所代表的立场。
この人たちがいわゆる私の立場であるところの密教っていうのになっていくんですね。
之所以称为'秘密'的'密',归根结底是因为这种身体力行的实践具有强烈的个人属性。
なんでこの秘密の密っていうのかっていうと、結局ですね、この身体性が関わってくるっていうことは、個人の問題になるんですね。
绕了一圈又回到个人问题上,感觉有点倒退了呢。
また1周回って、また個人の問題になって、ちょっと戻った感じですね。
确实有点。
ちょっとね。
不过由于它以大乘理论为基础,适用范围很广——但具体怎么做完全取决于个人,不可能要求十万人都采用具有同等价值的修行方式。
ただ、その大乗の論理をベースにしてるんで、適用範囲は広いんだけど、あなたがどうするかっていうのはあなたの問題なんで、あなたのやり方が10万人にみんな等しい価値を持つかって言ったらそうはいかないんで。
所以个人的修行方式,或许其他人其实不该观摩。
なので、その人のやり方っていうのは、他の人は実は見ない方がいいのかもしれない。
容易被带偏呢。
引っ張られちゃうんでね。
体育运动中也是这个道理对吧。
スポーツなんかでもそうですよね。
不能因为大谷选手那样击球,大家就都要照搬他的打法,这显然是不合理的。
大谷選手がああいうバッティングするからって、みんなね、大谷さんの言う通りにすればいいのかって、そんなわけないわけですからね。
所以归根结底这还是每个人的个体问题,正因无法普遍化,才会使用'秘密'这个词。
なので、そこはやっぱり一人ひとりの問題だよねっていうので、その、まぁなんだろう、普遍化されないっていう意味で、秘密っていう言葉を使うようになるわけですね。
现在简单说说佛教历史,其实时至今日,原始佛陀的教义已经无人能真正知晓了。
今、ざっとした仏教の歴史ですけど、この時点ですね、そのオリジナルの釈迦様の教え、結局これは誰にも今わかんないですね。
虽然经典文献留存下来,但有些原始教义已无法考证佛陀的真实意图。
文献では残ってるけど、実際に釈迦様がどんなつもりでそれをおっしゃったのか分からないソースがある。
对此的解读分为三种立场:上座部长老们的教义、大乘普遍性教义,以及从大乘衍生出的'实践派'密教。
それに対する解釈として、上座部長老たちの教え、そして大乗普遍性がある教え、その大乗の中から実践しようぜっていう密教、この3つの立場があるわけですね。
因此佛教体系包罗万象,提到佛教时必须明确所指——是净土宗、大乘还是密教,否则根本不知所云。
なので、仏教っていうのに、これが全部包含されてるんで、仏教って言った時にどれのことを言ってるのか、その根本のソースは別格として置いとくとして、浄土部、大乗密教っていうこの3つの中のどの立場の話をしてるんだっていうのを明確にしないと何言ってるかわかんないですよ。
对吧。
ね。
要无欲无求。
無気力であれ。
这种说法属于上座部。
みたいなのは上座部ですね。
相比之下,大乘佛教说的是要去普度众生,是的,是的。
どっちかっていうと解いてることで、大乗はなんか衆生を救いにいこうぜって言ってるから、そうです、そうです。
它完全没有说要无欲无求什么的,而密教则进一步将其个性化定制并付诸实践,所以说到底它们的根本教义其实是一样的。
全然無気力であれとかも言ってないし、密教とかはさらにそれをそのカスタマイ自分にカスタマイズして実践していこうって言ってるから、まさに全然言ってることが大元は一緒なんだが。
这是一个相当重要的点,正因为有这些差异,才会明确地分成了不同派别,所以呢,今天我们要讨论的是密教的话题,对吧。
結構重要なポイントで、そういう点があるからこそ、ちゃんと派閥として分かれているし、そうね、今日は密教の話だよっていう話ですよね。
是的,我将从密教的立场来进行讲解。
そうです、僕は密教の立場からお話をする。
碰巧我本人呢,因缘际会接触了密教,而且从历史上来说,密教算是佛教的最新版本,因此它实际上包含了之前所有的教义内容。
たまたま僕がですね、縁があって密教だっていうのもありますし、歴史的に言ってもですね、密教っていうのが一応最新バージョンなんで、仏教のということは、それ以前のものを全部一旦包含してるんですね、密教は。
所以,在能够讲述和思考的范围内,密教是最广泛的,因此我认为以密教为基础立场来面对佛教,这样能够拥有最广阔的视角,我觉得这样比较好。
なので、語れる範囲、考えられる範囲っていうのが、密教が一番広いので、僕は密教っていうのをベースの立場に、仏教に向き合うっていうのが一番、まぁ、こう、立場を広く取れるんでいいかなっていうふうに思っておりますので。
嗯,简单来说,净土真宗和大乘的区别,让我擅自解释一下的话,净土真宗是主张自身要开悟对吧,就是专注于自己开悟这件事并持续专心的教义。
まぁなんか分かりやすく、浄土真宗と大乗の違い、僕から勝手に説明しちゃうと、浄土真宗は自らが悟ろうとするそうですね、自分が悟ることをひたすら専任して専心するっていうのをやり続けていて、っていう教義ですよね。
是的,那就是大乘佛教的认识对象对吧。
そうですね、その認識対象ですよね、大乗仏教は。
当然自己也要开悟,但大乘佛教主张要以众生开悟、除自己之外众多人的开悟为对象,必须思考各种事情。
自らももちろんそうなんだが、衆生の悟り、自分以外の大勢の悟りっていうものを対象として、いろんなこと考えたりしないといけないねって言ってる。
这就是上座部和大乘的区别,所以从大乘的角度看,上座部会被区别对待。
っていう違いが、上座部とその大乗で、だから、大乗から見ると、上座で別視されちゃう。
当然啦,我想对方也有他们的说法,但先把这种认知整理清楚的话,刚才龙源先生提到根据自身立场会被说成无记力之类的。
もちろんね、向こうには向こうの言い分あると思いますけど、そういう認知だよっていう話を整理しておけば、さっき竜源さんが自分がどの立場かで無記力とか言われると。
那个说法和密教有点不同哦。
ちょっとそれは密教とは違うよっていう話。
是的,非常感谢。
そうですね、ありがとうございます。
像‘不要有欲望’之类的教导,在密教中也不是那样教的。
欲を持つなとかっていうのも、密教ではそのようには教えないよ。
原来如此,确实不一样。
違うなるほど。
好的好的,既然刚才提到了另一个话题,我想趁大家还理解的时候先说明一下,这其实和刚才谈到的佛教目的直接相关。
はいはいはい、もう一つ今話が出ましたので、これも先に理解いただいていると早いかなって思うのが、まさに今話を振っていただいた仏教の目的に関わるんですけど。
各位,佛教的目的可不是为了开悟哦。
皆さん、仏教の目的って悟りを開く くんじゃない。
你们都是这么想的吧?
って思いますよね。
其实不是这样的。
違うんです。
不不,其实就是这样。
いやいや、そうなんですよ。
不过日语这门语言啊,虽然词汇非常丰富,但情感色彩太浓重,含义也很模糊。
だけど、なんか日本語ってすごくあの、豊かな言葉なんだけど、エモくてエモくて、曖昧だ。
你们悟道究竟是指达到怎样的具体状态呢?
悟りを開くって具体的にどうなることだと思います。
这种问题很难立刻回答上来吧
ってなんかパッて答えられないでしょ。
是啊,确实挺难的
いや、確かに難しいね、これ。
就算是僧人也很少有人能立刻答上来
お坊さんでもパッと答えられる人、多分あんまりいないんですけど。
另外还有其他术语呢
あとね、他にも言葉あるんですよ。
比如说,解脱
例えば、解脱。
对对对,开悟
はいはいはい、悟りを開く。
获得解脱
解脱する。
还有一个词,涅槃
あともう一つ、涅槃。
是的,达到涅槃。
そう、涅槃に至る。
哇,这几乎就是尼雅利召唤时用的吧。
うわなんかほぼニヤリコールで使ってたかも。
还有一个是成佛。
あともう一個成仏する。
对对对,早上好,快去成佛吧,类似这样。
はいはいはい、お早う、成仏しろよ、みたいな。
这四个。
この4つ。
开悟、解脱、涅槃、成佛,这些词义的区别,能明确说出来的人其实很少。
悟りを開く、解脱する、涅槃に至る、成仏する、これの意味の違いって、バって明確に言える人ってあんまりいないんですよ。
它们之间是有些细微差别的。
ちょっとずつ違うんですよ。
我觉得如果能理解这一点会比较容易,所以才提起这个话题,不过你之前没听说过吧。
ここが理解しておいていただけると早いかなと思ってこの話しますけど、聞いたことないそれ。
那个,说到开悟,我来打个比方
えっとね、悟りを開くのは、ちょっと例えをしますね。
这个比喻就是攀登悬崖
その目標は 例え話ね、崖を登ることですってします。
开悟意味着获得能够攀上悬崖顶峰的能力
悟りを開くのは、崖を登り切ることができる力を得るっていうことです。
原来是获得力量啊
力を得るなんだ。
获得力量就是开悟
力を得るのが悟りを開くんです。
解脱则是实际运用这种力量登上悬崖的过程
解脱するのは、実際にその力を使って崖を登り切ることです。
至于涅槃,就是已经确实站在悬崖顶上的状态
で、涅槃に至るは、確かに崖の上にもう立ったんです状態です。
而成佛这个概念——这里就体现出大乘佛教与净土宗的区别了——指的是获得攀登能力、完成攀登行为、最终确确实实站在崖顶的我
で、成仏っていうのが、ここがまさに大乗と浄土部の違いになってくるんですけど、崖を登る力を得て、崖を実際に登り切るという行為を行い、確かに崖の上に立った私が。
就是给予那些还无法攀登悬崖的人登顶的力量。
まだ崖を登れない人に崖を登り切る力を与えることです。
诶,原来是给予啊。
えっ、与えることなんですね。
成佛这件事,自己成为佛陀就意味着拥有解脱他人苦难的力量,原来如此,是这样啊,是往那个方向发展的。
成仏って、自分がブッダっていうのは、他人の苦を抜く力があるわけですから、そうかそうか、そっちになるのか。
是的。
はい。
所以上座部佛教的目标是自己登顶悬崖达到涅槃境界,而大乘佛教则更进一步,在实际登顶之后——
だから上座部の方々の目標は、自分が崖を登り切った涅槃に至ることが目的ですなるほどで、大乗はそこからさらに進んで実際に崖を登り切った。
因为我已经掌握了攀登方法,就能赋能那些尚未获得力量的人,教导他们方法并赋予他们攀登悬崖的能力,这种状态就称为成佛。
私が崖の登り方わかったから、まだそこの力を持ってない人にエンパワーメントをして道を教えて崖を登らせる力を付与することができるようになった状態っていうのが成仏したっていうことなので。
空海和最澄他们完全就是朝着这个目标努力的感觉呢。
空海さんとか最澄さんとか、完全にそれ目指してる感じありましたよね。
这里存在区别。
ここが違う。
关键在于被称为圣者这件事,是说只要你到达终点就可以了吗?
要はその聖者って呼ばれてしまうのは、お前がゴールに至ったらもうそれでいいのかよと。
嗯,可以是可以,但那些在你之下仍在受苦的人就不管了吗?
まぁいいんですけど、いいんだけど、じゃああなた以下でまだ苦しんでる人はほっとくの。
这就是问题所在。
っていうのが大丈夫。
的质问对吧。
の問いかけですよね。
如果你已经能够站在那个悬崖之上,那么去引导那些无法攀登而痛苦的人们不就好了吗?
あなたがその崖の上に立つことができたのであれば、登れずに苦しんでる人たちを導いてあげたらいいんじゃない。
就是这个关键点。
っていうポイント。
这里还有一个重要的点是,在成佛的状态下,是赋予他人攀登悬崖的力量并引导他们,而不是把他们拉上来。
ここもう一個重要なのが、その成仏の状態で 他の人に崖を登ることができる力を付与し、導くであって、引っ張り上げるんじゃないんですね。
这就是佛教的特点。
ここ、仏教の特徴。
如果变成要拉人上来这种形式,就有点类似一神教了。
これが引っ張り上げてあげるってなってくると、ちょっと一神教っぽくなるんですよ。
佛教所说的救赎,是赋予人自助的力量。
救いを与えるっていうのは、仏教の場合には自分でやる力を与えるんです。
而不是替人代劳。
やってあげるんじゃないんですよ。
这里也有些不同之处。
ここもちょっと違うところ。
有趣的是,确实在一神教体系中,若没有神的恩典,
面白いポイントだと、確かに一神教だと、神の恩寵なくして、
要成就非凡之事,多少有些僭越之嫌。所以从佛教立场来看,您本身或许也能做到,但通过我的建议,可以让这个过程更轻松些。
何かを、凄まじいことを成し遂げるって、ちょっと恐れ多いというか、だから仏教の立場としては、あなたご自身でも多分できるとは思うんだけど、私がアドバイスすることによって、それがもっと楽に なりますよね。
如果您不知道具体方法,我可以提供建议。
もしやり方がわかんないんだったら、僕がアドバイスしますから。
这样您思考后,应该也能做到吧?
それで考えていただければ、あなたにもできるんじゃないですか。
就是这样的立场。
っていうポジション。
说到底,就是要自己动手对吧。
究極、自分でやりましょうってことですよね。
不过我会全力支持你,这就是成佛的状态对吧。
その代わり、僕はフルサポートしますよっていうのが、その成仏の状態ですよね。
我觉得这也是佛教的特点。
この辺も仏教の特徴だと思います。
自爆灵并不是真的被净化了的意思对吧。
自爆霊がなんかこう、いやマジマジ浄化されるっていう意味じゃないんですね。
那边。
そっち。
我之前是这么想的。
と思ってましたね。
感觉这个演播室里好像有自爆灵。
ちょっとこのスタジオ、自爆霊いるっぽい。
我们开玩笑说有个该死的自爆灵总是不厌其烦地让摄像机反复停机,要不请幽灵来驱个邪吧。
何回もカメラが止まるから来るっていう地味な嫌がらせをするクソ自爆霊がいるんで、幽霊さんに払ってもらおうぜとかいう冗談言ってましたね。
完全搞错了,这个认知差异其实很关键。
全然違った、違うんだねっていうのが結構ポイントです。
在此基础上,攀登那个悬崖的比喻,其实象征着从苦难中解脱的过程。
で、その上で、じゃあその崖を登ることと、今僕が例えたのが一体何なのかっていうのが、その苦からの脱却っていう話になるんですよ。
因为是关于苦难的话题,所以聚焦在'苦'这个概念上。
その苦の話だから、苦にフォーカス。
终于回到最初的问题了。
最初の質問にやっと帰ってきた。
开场白太长了。
前置きが長。
但佛教麻烦的地方就在这里。
でも、仏教ってね、ここが厄介なんですよね。
如果突然精准切入主题的话,就会显得很突兀。
いきなりピンポイントでそのトピックを話すと、あれ。
不过这个呢,
でもこれって。
或者说,不明白那个,不是这样的吗?
とか、それわかんないとか、こうじゃないの。
就会冒出来,所以要从基础开始,这样一步步构建起来,原来如此。
って出てくるんで、土台からね、こう、積み上げていくと、なるほど。
大概就能理解了,虽然这有点麻烦,但还请稍微努力一下,希望大家能陪我继续。
って多分わかるんで、ちょっとこれめんどくさいんですけど、ちょっと頑張ってね、お付き合いいただければと。
首先呢,应该先拿到地图比较好,对吧。
一回最初にね、マップを、そうね、いただく方がいいですよね。
是的。
はい。
那么,什么是脱离苦难,以及为什么要追求这个目标——关于苦难的问题,释迦牟尼,接下来可能会讲很多,但佛教整体上是非常讲究逻辑的。
じゃあ、苦からの脱却とは何か、そして、なぜそれを目指すのかっていう苦はいで、お釈迦様って、これ から多分いろいろお話ししていきますけど、仏教全般、めちゃくちゃロジックなんですね。
佛教的本质啊,是用近乎刻板的严密逻辑来阐述的,简直到了让人说‘够了’的程度。
もういいよっていうぐらい、カチカチのロジックでくるんですよ、仏教の本質ってね。
展开剩余字幕(还有 196 条)
但是,时不时地,会冒出一些非逻辑性的地方,我觉得这很有人情味,我很喜欢,这就是佛教的根本目的。
でも、ところどころふって、こう、ロジックじゃないところが出てくるのが、僕は人間ぽくて好きだなって思うんですけど、この仏教の根本目的ですね。
佛教究竟是要做什么呢?
仏教っていうのは一体何をしようとしているのか。
为什么释迦牟尼要宣讲佛教这一教义呢?
なぜお釈迦様は仏教という要は教えを説いたのか。
释迦牟尼是为了什么而修行,悟到了什么,又教导了什么呢?
何のためにお釈迦様はですね、修行をし、何を悟り、そして何を教えたのか。
当然,我认为对此有各种各样的看法,但我个人觉得关键在于从痛苦中解脱。
これまぁいろんな考え方もちろんあると思うんですけど、僕なりにここだなって思うのが、その苦からの脱却なんですよね。
释迦牟尼在经典中表达了这样的意思:所有众生都具有逃离痛苦、追求快乐的本性。
で、お釈迦様は経典の中でこういう雰囲気のことをおっしゃっておられて、あらゆるすべての生きとし生ける者たちは皆苦から逃れ、楽を得ようとする性質を持っている。
这一点毋庸置疑。
これは疑いがない。
因此,我们都应该努力达到那个境界,并互相帮助。
なので皆そこに行けるように努めるべきだし、手助けをするべきだ。
这就是前提啊。
これが前提なんですね。
所以,这里就不太会像西方康德那样,去思考人的幸福究竟是什么。
だから、そこにあんまりこう、例えばね、西洋のカントとかって、人の幸せとは一体何だろうか。
类似的事情,他们会拼命思考。
みたいなこと、むちゃくちゃ考えるわけですよ。
释迦牟尼就不太考虑那些。
お釈迦様はあんまりそれ考えない。
是的,远离痛苦、获得快乐,这是大家理所当然都会认同的吧。
いや、苦から離れ、楽を得るっていうのは、みんなが当たり前にそうだよね。
他说自己从未见过不是这样的例子。
そうじゃないものを私は見たことがないっておっしゃってる。
我想从这里开始探讨,虽然这有点跳跃,但请问您对'苦'的具体定义是什么呢?
ここからまず行きたいんですけど、そこは割とバクッて行くんですけど、じゃあ苦って一体どういう定義でおっしゃってるんですか。
关于这一点其实是有明确定义的。
っていう ことには明確な定義があるんですね。
那个,怎么说呢,日语确实很复杂啊。
で、あの、まぁ、普通にね、日本語ってややこしいですね。
虽然是很古老的说法了,就像水户黄门说的,人生有乐就有苦之类的。
本当に古い話ですけど、水戸黄門とかね、人生楽ありゃ苦もあるさ、みたいな。
对吧,就会觉得'好有感觉啊',但佛教讲的并不是这个。
そうですよね、エモいエモいんですよなんかそうだよねってなるんだけど、そんな話してるじゃないですか、仏教はね。
但因为用词相同所以很难区分。
でも言葉同じなんで難しいんですけど。
一般直观理解的话,用英语来说就是pain啊、stress啊、suffering啊、fear啊这类负面情绪的概念,虽然也不算错。
普通パッてくって言うと、わかりやすく英語で言うと、ペインとかね、ストレスみたいなね、サファリングとかね、フィアとかねなんかそういう感じのネガティブなことっていうイメージで、別に間違ってないんだけど。
如果用更精准的定义来说,是指具有认知能力的生命体。
もっと精密な定義で答えを言うと、認識力があるものですね。つまり生命が。
是指因渴望某物却无法实现、无法获得而产生的心理作用。
何かを望み、欲しい、そしてそれが叶わない、得られないということによって発生する心理作用なんですね。
不仅指无法实现和获得这个事实,还包括由此产生的情绪反应。
叶わない、得られないということだけではなくて、そこからなんかお気持ちが発生するわけですよね。
讨厌之类的。
嫌だとか。
所以说,从非常微不足道的事情,到超级严重的事情,全都属于'苦'的范畴,就是这个意思。
だから、すごくしょうもないことから、超度級のものまで、全て苦に入るという、そういうことですね。
比如说呢...我想想啊。
例えばなんかなんだろう。
明明现在肚子饿了想吃今天的午饭,但还有录制工作,明明是午饭时间却现在不能去吃。
もうお腹空いて今日の昼飯食いたいのに、まだ収録があって昼時なのに、今はいけないな。
这也是小小的'苦'呢。
これも句ちっちゃい句ですね。
小小的。
ちっちゃい。
虽然完全无关紧要,但确实是小小的'苦'啦。
めちゃくちゃどうでもいいけど、ちっちゃい句だし。
那个...真的觉得活着超级痛苦,完全得不到任何人的认可,每天都想死。
あの、もうマジで生きるのが超辛くて、もう自分が全く誰にも認めてもらってないし、ほんと毎日死にたい。
这也是苦。
これも苦です。
两者皆为苦,释迦牟尼佛是如此定义的。
どっちも苦として、そのお釈迦様は定義していると。
是的,就是说当前规模首先没有差别。
そうです、今の規模のまず差がないって話。
不是说没有差别,而是说到苦,在我心里其实会把相当痛苦的事情当作苦,该怎么说呢,算是某种程度上的吧。
差がないというか、苦っていうと、僕の中だと結構苦しいやつを苦だと思ってるんですよね なんか、まあまあなんか。
比如说,像被人轻轻掐一下这种,我本来觉得不算痛苦的,但其实也是痛苦。
例えば、ちょっとつねってあいてみたいなのは、なんか苦じゃないっていう感覚があったんですけど、苦です。
从定义上来说,这确实是痛苦吧。
苦ですよね、定義的に。
嗯,从定义上讲,那个,如果你希望被掐的话就不算痛苦,但明明不想被掐却突然被掐了一下,然后‘啊’地叫出声,就连这种程度也算痛苦了。
はね、定義的には、あの、まぁ、つねられたかったら苦じゃないけど、つねられたくもないのに、急にちょっとつねられて、あいてってなったら、これでさえ苦なるほど。
真的,比如被蚊子叮咬之类的。
ほんと、蚊に食われるとかね。
是吗,明明讨厌痒却偏偏发痒的感觉。
そうですか、痒いの嫌なのに痒いみたいな。
痒什么的其实无所谓,但也是苦。
痒いとかマジでどうでもいいんだけど、でも苦です。
房间有点热啊,甜食也是苦寒。
部屋がちょっと暑いとか、あまさにも苦寒。
啊。
あれ。
稍微有点冷也是苦,一切快苦就是这么回事。
ちょっと寒いとかも苦だから、一切快苦ってそういうこと。
对,并非所有存在方式中——释迦牟尼可没说所有事物都是苦。
そう、すべてあり方の中に、これね、すべてが苦だってお釈迦様言ってない。
在所有事物中,与苦相连的可能性永远不会为零。
すべての物事の中に苦につながる可能性っていうのがゼロになることはありない。
所有事物中都蕴含着苦的种子。
すべての物事の中に苦の種はある。
它绝对有被触发的可能性。
それが発動する可能性は絶対ある。
无法从中逃脱的意思是,我们无法逃避生活在一个充满可能性的世界,正是在这样的世界里,痛苦是不可避免的,只要我们还活着。
そこから逃れることは絶対にできないっていうのは、可能性がある世界に生きてることから逃れることができないそうですねっていう意味で、まさにまさにその中で、その苦っていうのは、だから 不可避なんですね、生きてる以上は。
也就是说,如果渴望却得不到、无法满足,当渴望和欲求都归零时,或许痛苦会消失,但那已经不再是生命了,对吧?
つまり、その望んで欲して叶わない、得られないで、望む、欲するっていうことがゼロになったら、苦はなくなるかもしれないけど、それってもう生命じゃないですよね。
所以,这已经是不可避免的了。
ってなってくるので、それはもう不可避。
但是,释迦牟尼说过,要避免那种苦的成就、苦的满盈、苦的完成。
ただ、その苦の成就、苦が満ちてくる、苦が完成するっていうのは避けよう ってお釈迦様言ってる。
所谓完成是什么呢,就像刚才深井先生的例子中稍微提到的,就是朝着绝望的方向发展对吧。比如讨厌发痒啊,或者想打车却打不到之类的,这种苦从某种意义上来说都无所谓。只能认倒霉了。
その完成って何かっていうと、さっき深井さんの例えにもチラッとありましたけど、絶望の方に向かっていくっていうことですよねなんかあの痒いのやだとか、何か雨降っててタクシー止めたいのにタクシーいないみたいな、そんな句はある意味どうでもいいんですよ。しょうがねーなーつ。
因为就这样结束了嘛。
って終わるわけですからね。
就像约会迟到被骂一顿就完事了那样,但如果是比如在决定人生的重大关头搞砸了然后一切就结束了那种。
待ち合わせ遅刻しても怒られて終わりみたいな話なんだけど、それがですね、例えば人生を左右するような重大局面で何かやらかして終わったみたいな。
但终究会走向绝望对吧。
でも絶望に行くわけですよね。
要是只是稍微有点饿倒还好。
ちょっとお腹減ったぐらいだったらいいわ。
但如果对你说'这辈子都不给你饭吃',真变成这样的话,那就是绝望了。
だけどお前、一生もの食わせねえぞって、ほんとにそうなるってなったら、これ絶望ですよね。
而这种绝望产生的问题在于,绝望终究会引发暴力。
で、この絶望っていうのが発生して何がいかんかというと、絶望はやっぱりね、暴力につながるんですよね。
是的。
はい。
当这种暴力指向自身时,就会导致抑郁、彻底丧失动力、闭门不出,最严重的情况就是自杀——这其实也是对自己施加的暴力。
あの、自他に向かって、自分の方に向かってくると、ほんと鬱になるとか、完全無気力とか、引きこもりとか、最悪の場合には自死っていうことになるし、それも暴力か暴力、自分を痛めつけてるわけですからね。
而当暴力指向外界时,就会出现殴打他人、抢劫财物等行为,最极端甚至会变成恐怖分子滥杀无辜。所以当苦难走向绝望时,
で、他に向かうと、ほんとに人殴る たりとかなんか、ものを取ったりとか、最悪はテロリストになってですね、たくさん人を殺すみたいなことになっていくので、この絶望の方に苦が向かっていくと。
世界只会变得更糟,而佛教的重要核心思想就是设法避免走向这种境地。
世界は悪くしかならないんで、そっちに行くのをなんとか回避しようっていうのが結構仏教の大きなポイントだと思うんですね。
任何事情都会变成那样呢。
なんでもそうなりますよね。
比如说,就拿雨天打不到出租车这一件事来说。
例えば、本当に雨の日にタクシーが捕まらないこと1点を持って。
将其发展到那种暴力程度也是有可能的吧。
その暴力レベルにまで発展させることは可能ですよね。
在我自己的心理上,我属于那种很容易烦躁的类型,真的。
自分の心理で、僕とかすごいイラつきやすいタイプで、本当に自分。
我的元认知能力确实很高,但结果却很糟糕呢。
僕、ほんと、メタ認知能力は高いけど、高い結果ですね。
我深刻意识到自己是个多么没用的人,但能理解,能理解啊,对愤怒的樋口产生的压力真糟糕。
自分がいかにしょうもない人間かすごい理解してるなと思ってるんですけど、わかる、わかるな、やべえやべえ怒った樋口に対してのストレス。
不不,能被理解是好事。
いやいや、分かられていいです。
虽然真的很没用,但樋口先生大概,只有千分之一左右的人类...不对,说不准,太渺小了。
本当にしょうもないんですけど、樋口さんの、多分ね、1000分の1ぐらいの人間なん、いや、わからんけど、ちっちゃい。
虽然只是像很小的水蚤一样微不足道的事情,但不知为何,我自己却能真切地感受到,确实会为这些琐事产生相当强烈的压力。
だいぶちっちゃいミジンコぐらいなんですけど、なんかそこですごい自分が感じてるのが、本当にしょうもないことで、すごくちゃんとストレス持てる。
而从脑科学的角度来说,这种压力其实就是神经炎症。
で、そのストレスって、脳科学で言うと、その神経の炎症なんですよね。
我从一位名叫井上老师的脑科学专家那里学到了关于脑神经炎症的知识。
脳神経の炎症だっていうのを、井上先生っていう方から、脳科学の先生から学んで。
简单来说,就是我一直在引发一些本不必要的炎症。
要は、起こす必要もない炎症を僕は起こし続けていると。
是啊,我觉得这确实可以说是对自己施加的暴力。
そうか、それはまさに自分に対する暴力であると言えるなと思うんですよね。
所以确实啊,即使没有身体上的暴力,当愤怒、怒火涌上心头时,对心理健康也不好呢。
なので、確かになど、確かにね、その身体的な暴力はなくても、怒り、腹がふつふつ湧いた時点でもメンタルに良くないもんね。
比如说,就算是肚子饿了,哎呀,总觉得,总有办法解决的嘛。
例えば、お腹が空いてるのでもさ、例えば、いやなんか、どうにでもできるじゃん。
比如要是能抱有傲慢的自我意识,就会想:竟敢不给我这样的人在12点提供饭菜,这算什么事。
例えば尊大な自我とかを持てれば、私の様な人間に12時にもなってご飯を提供しないとは何事だ。
完全可以这样发火嘛。
っつってキレることは可能じゃん。
确实,以那样的自我或者说认知方式生活着,不断积累压力,这既是对自己的暴力,甚至可以说也是对他人施加的暴力。
確かにそのような自我となんていうか認識で生きていて、ストレスを溜め続けて、それが自分の暴力にもなっているし、まぁ何ならその言い方って他者に対する暴力にも なっていて。
而且这完全没有任何好处,不,生物本身就不追求那种状态吧。
で、それがもう全く何のメリットもなく、いや、そもそもその生物というのはそういう状態求めてないでしょと。
不变成那样不是更好吗?
そうならない方がいいんじゃない。
然后。
と。
而且,即使发生了同样的现象,如果能那样看待,那样处理压力——当然我不是只谈论压力——所谓的‘苦’就是那种感觉。
で、同じ現象が起こったとしても、そのように捉えて、そういうふうにストレスを、まぁストレスのことだけを言ってるわけじゃないと思うんですけど、苦っていうのはそういうなんていうか。
所谓的‘苦’既可以导向不良的心理作用,也可以不导向它,这因人而异,简单来说就是这样。
苦っていう悪い心理作用の方に持っていくことも可能だし、持っていかないことも可能じゃないと、そこ人によって違うしじゃんみたいないうことを超単純化すると。
首先作为出发点,就是这样的事情,是的,这就是豪太——如果达鲁塔先生所说的意思对吧。
まず出発点として、そういうことを、そうですね、その豪太、もしダルタさんが言ってるということですよね。
好的。
はい。
这个'苦'的对应概念就是'乐'。
その苦の対概念が、今度、楽なんですよね。
这个'乐'也不是指有点开心、高兴或者轻松的意思。
楽っていうのも、なんか、ほんと、ちょっと楽しいとか嬉しいとか、楽ちんっていう意味ではないんですよね。
大家很容易联想到超级轻松的状态吧。
めっちゃ楽チンのイメージありますよね。
就是那种什么都不用做、完全无事可做的状态。
楽を何もしてないとか、本当にやることないとか、そんな感じですよね。
虽然容易联想到没有义务的放松状态,或者像在度假村无所事事的感觉,但其实不是这样。
義務ない状態で楽とか、もうリゾートでほげほげしてるような感じっていう風なイメージを持ちます けど、そうじゃない。
作为'苦'的对应概念,再说明一下:'苦'是指因追求却无法获得、愿望无法实现而产生的心理作用。
苦の対概念なので、苦ってもう一回整理すると、求めて望んで得られない、叶わないことから発生する心理作用が苦です。
而'乐'就是它的反面。
楽はそれの逆だから。
也就是说,处于一种不再有所求的状态。
つまり、これ以上もう求めるものがない状態。
是一种心满意足、获得满足的状态。
満ち足りている、満たされている状態のこと。
就是从这种状态产生的心理作用。
その状態から発生する 心理の作用ですよね。
比如当你饥肠辘辘时,有人端上你最爱的食物,味道绝佳,用餐环境又好,餐后的茶也美味,让你感到无比满足的时候。
本当に腹が減ってた時に、自分の大好きなもの出していただいて、本当美味しくて、でもその食べさせてもらった環境も良くて、食後のお茶も美味しくて、もう満ち足りたっていう時に。
这种时候通常不会突然又冒出其他欲望吧。
何かあえて違う欲求がバーって湧いてくるって普通ないと思うんですよね。
请大家想象一下——确实如此啊,吃到了心心念念的美食,肚子饱饱的。
想像していただいたら、そうですよね、めちゃくちゃ本当に求めてたもの食べてお腹いっぱいだ。
哇~真是太好吃了呢。
うわぁ美味しかったねー。
然后突然说'好想去迪士尼乐园啊'
つって、めっちゃディズニーランド行きたい。
之类的。
みたいな。
在那个瞬间呢,是不会有的啦。
その瞬間にね、ないんですけどね。
如果去不了迪士尼乐园的话,感觉就要不行了,之类的。
ディズニーランドに行けなかったらどうにかなってしまいそうだ、みたいな。
那种欲望是不会产生的吧。
そういう欲求って湧かないじゃないですか。
在真正的满足中,持续感受着‘要是这样的日子能永远持续下去就好了’,从中显现出的那种心理状态就是‘乐’的境界。
本当に満足の中で、これこれが毎日永遠に続けばいいよねっていうようなことを感受し続けて、そこからそういう心理が立ち現れてるっていうのが楽の状態なんで。
被您这么一说,确实如此——一切众生都在试图脱离痛苦、追求快乐。
そう言われると、あらゆるものは、生きとし生けるものは、苦から離れ、楽を得ようとしてるっていうのはそうですよね。
确实如此。
本当に。
就连昆虫或细菌之类的生物不也是这样吗?
昆虫とかバクテリアとかでもそうじゃないですか。
他们以自己的方式呢。
彼らなりにね。
人类的情况稍微高级一些,所以能够产生扭曲呢。
人間の場合にはちょっと高等なんで、よじれることが可能なんですよね。
因此,会想要压力来促进成长啊,或者社会规则之类的。
なので、成長のためにストレスが欲しいとか、社会のルールとか。
所以既然是生物,正因为主动做着什么才称之为生物,完全一动不动的那种生物或许也是存在的。
だから生き物である以上、何かを能動的にやってるから生き物であるわけだから、全く一切動かない生き物っているかもしれない。
生命与。
生命と。
但那是称之为吗?
でもそれを呼ぶのか。
就是这么回事吧。
っていう話ですよね。
为什么连病毒都会这样飞来飞去地传播,这种主动性的方向和向量存在本身,不就说明‘乐’这一类别已经存在了吗。
なんでそのウイルスでさえ、こう、飛来して移って行ったりしてるっていう、その能動性がある方向性とベクトルが存在していることが、もうすでに楽というジャンルが存在しているといえ。
这是在指出确实如此呢。
るよねって指摘してるってことですよね。
确实是这样。
そうですね。
所以说,会渴望压力啊,为了成长嘛。
なので、ストレスが欲しいとか、成長のためにね。
比如健身训练也是同样的道理。
例えば筋トレなんかもそうですね。
那个(健身)到底在做什么不是搞不懂吗。
あれ何やってかわかんないじゃないですか。
肌肉会酸痛呢。
筋肉痛なってね。
很痛。
痛い。
虽然很痛,但正因为是在追求这个效果,如果对想健身的人说'肌肉会痛还是别练了'而不让锻炼,那反而是种折磨对吧。
痛いんだけど、でもそれを求めているわけだから、じゃあ筋トレしたい人に、いや、筋肉痛むからやめた方がいいよって筋トレさせないってなると苦を与えてるわけですよね。
人类啊。
人間って。
正因为存在这种巨大差距,要是禁止健美选手健身,对他们来说会是莫大的痛苦吧。
その高騰差があるから、ちょっと話が難しいボディビルダーに筋トレ禁止したら、よほどの苦でしょうね。
因为存在被否定的感觉,太过轻松反而会变成痛苦。
存在否定だから楽すぎて苦になるわけですよ。
就是这么回事。
そういうことですよね。
也就是说,这里也经常存在误解,有人说佛教否定苦难,但那样就无法成长了,所以有人讨厌这种观念——其实佛教讲的就是这个道理。
つまり、よくこれも誤解があって、なんか仏教は苦を否定するって言って、そんなことしたら成長とかがないから、俺その考え方嫌だっていう人いらっしゃるんだけど、そういうことなんですよっていう話なんですよね。
你为了成长需要一定的压力。
あなたは成長のためにある程度のストレスが欲しい。
既然你说'不愿意得不到这种压力',那么如果要运用佛教,它的作用就是帮助你获得适合成长的适当压力。
なのにそれが与えられないのは嫌だっておっしゃってるわけだから、仏教を適用するんだったら、あなたに適切な成長のためのストレスが与えられるようにお手伝いをしましょうねっていうのが仏教なんで。
这个原则,恐怕是普遍适用的。
この原則っていうのは、多分普遍的に当てはまるはずなんですよね。
原来如此,像欺凌这类就很容易理解对吧。
なるほどなんかね、虐めとか分かりやすいよね。
比如渴望被鞭打、被掐脖子,或是被捆绑束缚之类的。
ムチで叩かれたい、首絞められたいとか、繋がれ縛られたいみたいなね。
虽然说是探索欲望可能不太准确,但本质上是在追求通常不愿意做的事。
捜索した欲求って言ったらあれですけど、普通やりたくないのを求めているっていう。
用佛教的概念来解释,就是通过被打来获得解脱。
あれが仏教の概念で行くと叩かれてるのが楽になる。
就是这么回事。
そういうことですね。
如果是自愿追求而感到愉悦,那就可以定义为极乐。
望んでるので気持ちいいってなってたら、それは楽楽という定義になるという。
明白了,明白了。
なるほど、なるほど。
这样梳理后,对于苦乐的概念就清楚多了。
これで整理すると、苦楽っていうことがどういうことかっていうのはだいぶわかる。
那么在这些概念中,关于'乐'的部分,刚才虽然提到了抄袭的话题,但其实它的表现形式是极其多样的。
で、その中で、その楽の方は、今ちょっとその盗作の話がありましたけど、めちゃくちゃバリエーションあるんですね。
确实,即使是同一个人,在不同情境下也会有不同的需求变化,对吧?
確かにその何にその人がそうそう同じ人でも状況で変わるわけじゃないですか。
比如刚才还因为吃饱了感到幸福,但转眼间可能就想去迪士尼乐园,或者想去SM俱乐部了。
さっきまでは腹いっぱいでハッピーだったけど、もうもうそれじゃなくて、まさにディズニーランド行きたくなるかもしれないし、SM クラブに行きたいかもしれないし。
'乐'的追求对象本身就是不断变化的。
その楽の対象っていうのは、コロコロ変わるんで。
所以佛教思想认为,与其无止境地追求'乐',不如把注意力放在阻碍'乐'的因素上更容易理解。
なので、仏教のアイディアとしては、その楽は追求してもキリがないから、楽を妨げるものにフォーカスした方がわかりやすいんじゃない。
就是这个道理对吧?
っていう話ですよね。
换句话说,'乐'是在无所求的状态下自然显现的。
つまり、楽はこれ以上求めるものがない状態から現れる。
而'苦'则产生于有所求却不得实现的落差之中。
で、苦っていうのは、求めて望んで叶わないっていうところから現れる。
那么,如果能消除这种'苦',就能过渡到满足的状态对吧。
じゃあ、その苦っていうのを取り払うことができたら、満たされた状態に移行するわけじゃないですか。
因此,既然不知道什么能带来喜悦,佛教就教导我们要把注意力集中在阻碍喜悦的'苦'上,引导人们关注痛苦。
なので、その、何を喜ぶかはわからないんで、その喜び、楽を妨げてる苦っていうものにフォーカスしましょうねっていうので、仏教っていうのは、苦の方に目線を向かわせる。
所以这并不是所谓的悲观主义对吧。
なので、そのいわゆるペシミズムじゃないわけですよね。
不是作为旁观者,而是聚焦于'苦',就能实际朝着生物、万物生灵所追求的方向和矢量前进。
観論者ではなくて、苦っていうものにフォーカスをすると、現実的にその生物、万物の生物が求めてそうな方向、ベクトル、持ってるベクトルの方に行けるんじゃね。
这就是开悟之人所说的意思对吧。
って悟った人が言ってたってことですね。
正是如此。
そういうことですね。
在《歎异抄》中,这就被表述为'拔苦与乐'这个词语。
それが歎異抄点では、言葉として バックヨラック、陸徳楽っていう言葉になるんですね。
拔除痛苦就是'拔苦'。
抜く苦しみでバックですね。
让我们拔除痛苦。
苦を抜きましょう。
而给予的‘与’字。
で、与える与ですね。
在‘赋予’的‘与’字旁加‘乐’字,组成‘与乐’(ヨラック),即拔除痛苦,赋予快乐。
付与するの与に楽と書いてヨラックバックヨラック苦を抜き、楽を与える。
这是从自己向他人传递的。
これは自分から他者に対してですね。
让我来帮你拔除你身上的痛苦吧。
あなたにある苦を 抜いてあげましょう。
让我来赋予你所缺乏的快乐吧。
あなたにない楽を付与してあげましょう。
是这样的。
ですね。
还有一组对句‘离苦得乐’——远离痛苦获得快乐,这个可以理解为自身的事情。
もう一つ、対句になっている離苦得楽、これ、離れる苦得る楽、これ自分自身の事と解釈したらいいと思うんですね。
让我从当前的痛苦中脱离出来。
私に今ある苦から私が離れる。
获得我目前所没有的快乐。
私に今ない楽を得る っていうこと。
也就是说,自己和他人共同脱离痛苦,获得快乐。
つまり、自他ともに苦から離れ、楽を得ていく。
刚才那个攀爬悬崖的例子,正是如此,确实是这样呢。
さっきのあの崖の登るやつがまさに、まさにそうですね。
这是相互对应的意思吧。
対応してるわけですね。
而这个‘拔苦予乐’,当‘拔’与‘予’达到一致的境界,这种愿望和祈愿就叫做慈悲。
で、このバック、夜楽、陸と楽が一致した境涯、願い、祈りのことを慈悲というんですね。
慈悲中的‘慈’和‘悲’,其实是两个不同的概念。
慈悲で、慈と悲っていうのは、実はこれ、違う概念なんですね。
这是将梵语翻译成汉语时,中国的翻译者大概将其合并成一个词创造出来的,在原始的梵语巴利语中并没有‘慈悲’这个词。
サンスクリット語を漢訳した時に、中国の その翻訳した人が多分一つの言葉にまとめて作った言葉で、オリジナルのサンスクリット語パーリーという言葉に慈悲っていう言葉はないんですね。
慈与悲并存。
慈と悲がある。
而慈心是给予喜悦与安乐之心,悲虽然被译为悲伤,但悲心实则是想要消除他人苦难的心。
で、慈の方は喜び、楽を与えようっていう心が慈の心で、悲っていうのも悲しいと訳されてますけど、悲の方が そこにある苦しみを取り去りましょうっていう心が非なんですね。
这在方向上是一致的吧。
これはベクトル的に一緒でしょ。
将负值归零。
マイナスをゼロに戻しましょう。
这就是悲。
が、非ですよね。
从零开始积累正向价值则是慈,因为方向一致,译者可能将慈悲合并为一个术语,但这样反而模糊了概念边界。
ゼロからプラスに積み増していきましょうっていうのが字だから、方向が一緒だから、多分翻訳した人は、字非っていうふうに1タームにまとめたんだけど、ちょっと輪郭がボケてしまったんですよね。
本应理解为慈与悲两个独立概念,所以这(慈悲)就是给予安乐、获得利益的境界。
本来は字と非っていう概念だと取るべき であって、なので、これがバック、与楽、利得、楽が慈悲なんですよね。
拔除苦难,给予安乐。
その苦を抜き、楽を与える。
这就是慈悲。
これが慈悲です。
那么,让我们以这个为原则生活在世上,思考自己行为的选择,我认为这是佛教的基本理念。顺便说一下,刚才那位龙玄先生说的,怎么说呢,就是...
で、これを原則に世の中に生きていきましょう、自分の行動のチョイスっていうのを考えていきましょうというのが、僕は基本の仏教だと思っていて、ちなみにさっきあの龍玄さんが、なんていうか、こう。
对于想要成长的人。
成長したい人に。
嗯,那个人的'乐'就是朝着成长的方向,'苦'则是无法成长的方向。
まぁ、その人の楽っていうのは、成長する方向で、苦っていうのが成長できない方向である。
对那个人施加一定负荷,传达成长方向性的事物就是佛教,之前不是这么说的吗?
ある程度の負荷をかけたその人に、その成長の方向性みたいなのを伝えていくのが仏教だっていう話されてたじゃないですか。
另一方面,就我自己学习而言,因为是入门阶段所以觉得是在用简化方式讲解,不过你看,关于执着的话题不是也有吗?
一方で、なんか自分が勉強している限りは導入だから単純化してくれて言ってると思うんですけど、なんかこう、執着の話あるじゃないですか。
简单来说,就是由于过度渴望成长而产生执着,持续陷入陷阱的状态——也就是不断再现'求而不得'的情况,要消除这种状态...我觉得如果能把这个传达清楚就好了。不过确实,这就是下一个阶段了。
要は その、成長したいすぎて執着が生まれ、そのトラップされ続けるというか、その求めても得られないっていう状態をまさに再現し続けるっていうことを取り除くっていう感覚なんでなんかそこをうまく伝わるといいなと思ったんですけど、そうですね、これがその次の段階ですよね。じ
那么,该如何从痛苦中脱离呢?
ゃあ、どうやって苦から離れるのか、ですね。
那么,虽然有点突然,这个话题可以留到下次再说吗?
で、唐突ですけど、その話、次回にしていいですか。
时间也差不多了。
いい時間なんで。
哦,原来如此,要花这么长时间啊。
おお、なるほど、そんな時間か。
我们已经聊了大概50分钟了呢。哈。
もう50分ぐらいしゃべってますね。は。
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