本集简介
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拜托了。
お願いします。
请多关照。
よろしくお願いします。
拜托了。
お願いします。
话说回来,上次的内容相当丰富,这次是继续吗?
さてさて、前回結構なボリュームでしたけども、その続きですか。
是啊,这是前提呢。
だあれ、前提ですもんね。
这次,从这里开始还有'空'的概念,写着'空'的'空'的概念,这是个核心概念呢。
今回、ここからさらにその空の概念 っていう、空と書いて空の概念っていう、もう中核概念がありますね。
而且前一个系列也讲过'唯识',要不先讲'空'吧。
で、前シリーズでもやった唯識っていうのもありますし、まず空がいいのかな。
'唯识'和'空',哪个比较好呢?
唯識、どっちがいいですかね。
空的概念应该放在前面讲。
空の方が先に来るべきですね。
那就从空开始吧。
じゃあ、空から。
因为内容极其深奥,所以必须严谨对待。
凄まじい難解さなんで、厳密にやるとですよ。
我想先让大家在不担心误解的情况下,大致了解基本概念,然后我们再通过提问的方式逐步深入严谨地探讨。
一旦誤解を恐れず、だいたいこういうことですっていう話をしてもらった上で、僕たちが突っ込む形で厳密にしていくようにしようかなと思ってます。
看来难度确实相当高啊。
それぐらい難しいそうですね。
我自己学了三年都还没完全弄明白,确实很难。原来如此,那我们一起加油吧,好的。
僕が3年かけて勉強してまだわかってないみたいなやつなので、難しいです なるほど、いや、頑張りましょう、ちょっと、はい。
嗯,是这样的,我想先回顾一下上次的内容,然后接着往下讲。上次我们说到佛教的基本前提,佛教这个体系究竟想要实现什么。
えっと、そうですね、前回のお話をちょっと復習して、そこから話を繋げたいですけど、前回はですね、その仏教の大前提ですね、仏教っていう体系は何をしようとしているのか。
佛教的终极目标到底是什么呢?
一体仏教の目的地点って何だろうかっていう話。
所谓开悟,如果用攀登悬崖来比喻的话,就是从痛苦中解脱。
悟りを開くっていうことなんですけど、それ、崖を登るっていう例えをさせていただいて、それは苦からの脱却であると。
痛苦源于渴望却无法得到、无法治愈的心理作用,所有生命都会被迫接受自己不愿接受的事物,或者无法获得内心真正渴望的东西。
苦っていうのは、望んで欲して得られない、直らないっていうところから発生してくる心理作用であって、生きとし生けるものはみんなですね、その自分が望まないものを強制付与されたりですね、自分がほんと心の底から欲しているものが得られないっていうことに。
简单来说就是会产生'讨厌'的感觉,这种感受最好不存在。
その、端的に言うと嫌だなっていう感覚を持つんで、それは無い方がいいですよね。
让我们来思考如何避免痛苦的方向和方法论。
その苦を得ない方向性、方法論っていうものを考えていきましょう。
这就是佛教的根本。
これが仏教の根本です。
而今天,我将:
で、今日はですね、それの僕なりにですね、究極のフィニッシュとして、空という概念ですね、一切皆空というこの概念で、それを解決するっていうところに至るわけなんですけれども。
作为发展的前提,首先是小乘佛教。
その発展の前提としてですね、まず最初は上座部仏教ですね。
上次提到的,
前回お話ししました、その仏教が1+3っていうところで、長老たちの教えがどのような対処をしてきたのかっていうところから見ていきたいんですけど、それもですね。
那个,我不认为只有唯一一种方法。
あの、たった一つっていうことはないと思いますよ。
现在的上座部佛教,在泰国、斯里兰卡、缅甸、老挝等地都有分布,呈现出多样性,虽然各位老师的教导方式各有不同。
今の上座部さんがっていうのもですね、タイスリランカミャンマーラオスとかですね、まぁ多様なんで、いろんな先生はおられますけど。
原则上来说,从大的方向性来看,基本逻辑是:作为摆脱苦难的方法论,其前提条件——正如我刚才所说——苦难源于渴望却无法实现。
まぁ原則的にですね、大きな方向性としては、基本的にですね、論理としては苦の脱却の方法論として、前提がですね、先ほども言いましたように、苦っていうのは、望んで欲して叶わない。
这种因求而不得产生的心念活动,其实只要一开始不去渴望就好了。
得られないっていうところから立ち現れてくる心の働きだから、そもそも 望まなければいいじゃないか。
不去贪求不就好了吗?
欲しがらなければいいじゃないか。
正是这种贪欲成为了苦难的根源。
欲することこそが苦の根源になるよね。
确实是这样呢。
まぁ、確かにそうなんですね。
小时候父母也是这样被
子供の時もそうやって親に教えられることはありますよね。
确实是这样。
そうなんですよね。
那么,既然生命存在,为了这个目的该怎么办呢?上次也提到过,释迦牟尼说过痛苦的产生是不可避免的,那么如何将其最小化呢?
で、そのためにじゃあどうしたらいいんだって生命でいる以上、昨日、前回も見ましたけど、お釈迦様っていうのは、その苦の発生は不可避だよとも言ってるわけで、じゃあどうやってそれを極小化するのかっていうことに関して。
就是说要出家对吧。
出家しなさいって言うわけですよね。
简而言之就是舍弃家财,抛弃世俗,舍弃所有世俗的欲望和野心,成为僧人,隐居寺院,专注观照自心。
要は財家のですね、俗世を捨てて、その世俗的なですね、欲求とかですね、野望みたいなものを全部捨てて、お坊さんになって、僧院にこもって、ひたすら自分の心っていうものを見つめ。
持续进行所谓的'内观'冥想修行,最终达到心无所欲,甚至毫无感受的境界。
続けるヴィパッサナーと呼ばれるですね、その瞑想修行に明け暮れて、そしてついに心が 何も欲しくなくなる、あるいは何も感じなくなるっていうことですね。
在缅甸等地,将这种冥想的极致境界称为'枯木境界'。
ミャンマーなんかでは、その瞑想の極地を枯れ木の境涯って呼んだりするんですね。
枯木,大家应该都明白,就是已经枯萎的树木,即使到了春天也不会发芽。
枯れ木っていうのは、皆さん分かると思いますけど、もう枯れてしまった木ですから、春になっても芽吹くことはないですね。
夏天不会开花,秋天也不会结果。
夏になっても花は咲かないし、秋に実を実らせることもないし。
无论冬日寒风如何肆虐,它都只是那样伫立着,毫无反应,这就是枯木的境界吧。
その冬にどれだけ風が吹きすさぼうとも、ただそこにそのように立っていてですね、何らこう反応を示さないのが枯れ木ですよね。
达到这种状态,就是所谓常在佛性的冥想极致,他们追求的就是这个境界。
そのような状態に至ったのが、その常在仏的な瞑想の極地である、そこを目指すんだっていうような。
有时会被这样教导。
がされたりするんですね。
我在缅甸也曾被这样告知过。
私もミャンマーでそういうふうに言われたことがあります。
确实有一定道理,对吧。
で、一理あるでしょ、確かに。
人们对佛教普遍持有某种固定印象。
なんか結構割と仏教に対して持っているイメージ、一般的なイメージがあります。
我也这么认为。
僕そう思ってます。
好的。
はい。
那个,确实很多呢。
で、あの、多いんですよね。
这是净土,阿弥陀佛。
で、これは浄土、阿弥陀仏なんですよ。
确实,虽然大家现在可能也想到了,有道理但很讨厌对吧。
で、確かに今皆さんも思っていただいたと思いますけど、一理あるけど 嫌でしょ。
不,虽然会向往,但知道自己作为凡人是做不到的。
いや、憧れはするけれども、自分、凡人である自分には無理だなっていうのはわかるわ。
是吗,原来会向往啊。
そうか、憧れはするんだね。
是有点向往。
ちょっと憧れはする。
我正以那个为目标。
僕、そこ目指してます。
真的假的?
マジっすか。
那么,这里面已经分成了不同的派别和宗派了呢。
じゃあ、もうすでにこの中で派閥が宗派分かれましたね。
骗人的吧。
嘘だ。
不过,放下欲望或许确实是人生的一个重要主题。
いや、でも結構そこは欲を捨てるみたいな人生のテーマかもしれない。
现在这样也很帅气呢。
今かっこいいですしね。
那么,这个呢,虽然是我个人稍微超前一点的看法,但台上——或者说接下来要谈到的台上——其实是一种关于希望的想法。
で、これはね、僕なりにちょっと先を飛ばしたような話になりますけど、台上、これか、この後お話する台上っていうのは、その希望の考え方なんですね。
如果是这样的话,嗯,我在实际工作中感觉到,那些痛苦非常巨大、绝望很深的人,或许应该先去净土场一趟比较好。
だとすると、えっとね、本当に辛いことが大きくて、絶望が深い人は、一回浄土場に行った方がいいかなっていうのを僕、現場でやってて感じるんですよ。
对于那些陷入无法摆脱的负面循环之类情况的人,虽然大城(注:可能为人名或特定术语)接下来会详细讲,但这种想法其实是说‘还有可能性所以没关系,加油吧,一起努力,你能行的’。
抜け出せない負のスパイラルとかに落ちてるとかだと大城ってほんと今から話しますけど、可能性あるから大丈夫だよ、頑張ろうよ、やろうよ、いけるよっていう考え方なんですね。
真正受到伤害的人,最不想听到的就是这种话,对吧?
マジで傷んじゃった人って、そういうこと一番言われたくないじゃないですか。
确实如此。
確かに。
嗯,对于那些真正深陷黑暗深渊的人来说,真的已经...没关系了。
うん、もう本当に 闇の極みにあられる方って、もうその、大丈夫。
或者说'没事的'这种话反而会造成二次伤害。
とか言われることもまたダメージなんですよね。
我也接触过很多人,但面对那些真正痛苦的人,我常常找不到合适的话说。
僕なんかもいろんな人来られますけど、そういう本当に辛い方っていうのにかける言葉がないんですよね。
当真正什么都做不了的时候,'全部暂停一下'反而可能是个不错的解决方案。
本当に何もできないっていう時に、全部一回やめましょうっていうのは、結構これいいソリューションになるんですよ。
既然一切都毫无意义,连希望本身都是错误的,不如先消除所有欲望和感受——我们有这样的心理训练方法,建议尝试后反而恢复得更快。
全てが無意味なんで、もう望むこと自体が間違ってるんで、一回その望みとか欲求とか、心の感受性を消すっていう訓練があるから、それやってみましょうって言った方がどうやら立ち直りが早いっていうのがあるんですよね。
这是非常有意义的事。
それはすごく意義深いことだと。
但并非所有人都受过那么深的伤害。
でも、みんながみんな、そこまで傷んじゃった人じゃないじゃないですか。
相反地,比如说初创企业的创业者们。
むしろ、例えばスタートアップのね、起業家の方々とか。
那些大公司的高管、经营者们,不是都充满干劲吗?
大きなね、会社の幹部の方々、経営者の方々って、めっちゃエネルギーあるじゃないですか。
社会上不是有很多想要改善世界的人吗?
世の中良くしようって思ってる人もたくさんいるじゃないですか。
对那些人说'要多发呆'之类的话。
そういう人たちに、いや、よくボケしなさいみたいな。
这让人不禁怀疑是否真的有意义。
それってなんか意味あるんかなっていう感じにもなる。
根本不会想变成那样吧。
なりたいってなんないですよね。
因为他们本就不是想成为苦行者的人啊。
仮借になりたいと思ってない人たちですからね。
我认为这正是上座部佛教与大乘佛教立场和角色差异的体现。
ここがその上座部と大乗の立場の違いだし、役割の違いでもあると思うんですよね。
并不是说哪个好哪个坏,而是我们面对的情况不同,我想是这样的。
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、向き合おうとしてる状況が違うってっていうことなのかなっていうのが思います。
这个话题我们暂且放一放。
っていうのはちょっと一旦置いときます。
我并不是要完全否定世俗生活。
僕、別に常滑距離を否定したいわけじゃないんでね。
我认为它是有其作用的。
役割はあると思ってますから。
在此基础上我再回到刚才的话题。
その上で戻しますけど。
嗯。
は。
但是,要求人抛弃所有的生命反应,
でも、そうって、その全ての生命反応を捨てろ、みたいなね。
舍弃一切欲望、失去一切兴趣,要像枯木一样——正如'枯木'这个词所表达的,这实际上是对生命的否定。
一切の欲求を捨て、一切の興味を失いなさい、枯れ木のようになりなさいっていうのは、まさに枯れ木っていう言葉が示すように、その生命の否定なんですよね。
嗯,确实是这样呢。
まぁ、そうですよね。
确实,这是对生命存在的否定,说得更极端一点,甚至会演变成‘一切事物都没有活着的价值,还不如不活’这样的言论。
確かに、生命存在の否定、もうちょっと極端に裏を返すと、全てのものに生きている価値なんてない、生きてない方がいい って言ってるようなことにも繋がってくるんで。
我觉得很少有人听了这种话还能保持积极心态吧,而且既然社会存在,我们就必须这样延续生命。
そんなことを言われてポジティブになる人ってそこまでいないですよねっていう話だと思うし、やっぱその社会っていうのは存在する以上はこう命を紡いでいかないといけない。
生命是需要延续的,那么,我们该如何思考这个问题呢?释迦牟尼难道是教导人们要变成枯木的人吗?
紡がれていくものなので、じゃあ、そこに向かってどう考えるのか、お釈迦様って、その枯れ木になりなさいって教えた人だったのかな。
这正是理解上的差异吧。
っていう、まさに解釈の違いですよね。
这里是大乘佛教的关键点,由此衍生出的,我认为可以称之为中观、空的思想,这样理解应该没错。
そこが大乗のポイントで、そこから現れてくるのが、僕はその中間、空の思想っていうことでいいんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
在日本,《般若心经》这部佛经很有名,其中'色即是空,空即是色'这句对仗,总让人觉得神秘又很酷,甚至经常被用作拉面店的招牌呢。
よく日本では般若心経っていうお経が有名でですね、色即是空、空即是色っていう、この対句が、なんかこう、神秘的でかっこいいですよねなんかよくラーメン屋の屋号とかにもなってたりしますけど。
阐述这个'空'的概念的,就是写作'观'字的中观思想体系。
この空という概念を説いているのが、この中を観察の観と書いて中観という思想体系なんですね。
这大约是在公元2世纪左右,1世纪末到2世纪的时候。
これは紀元 2 世紀頃、1世紀末から2世紀頃かな。
被称为龙树(Nāgārjuna)的这位,是一位僧侣也是思想家,用'龙'字和'树'字组合,或者不用'树'字而用'毛'字写作'龙妙'。
って言われてるナーガ・アルジュナというですね、一人のお坊さんであり、思想家、そうですね、竜樹、ドラゴンの竜に樹木の樹、あるいはその樹木の樹じゃなくて、有毛果敢なの毛という字を書いて龍妙。
在密教中,更多使用'龙妙'这种称呼。
密教ではね、龍妙という言い方の方が多い。
'Nāga'这个词,就是龙的意思。
ナーガっていうのが、そのドラゴンという意味ですね。
'Arjuna'这个词,既有树木的意思,也有勇者的含义。
アルジュナっていうのが、樹木という意味と、勇者っていう意味があるんですよね。
所以关键在于采用哪个意思,这位龙树菩萨(Nāgārjuna)生活在更早时期,是释迦牟尼佛圆寂后五六百年的人物。
なので、どっちの意味をとってるかっていうことですけど、この龍樹菩薩 ナーガルジュナ、この方がそれ以前にこの方だから、お釈迦様が亡くなられてから五六百年後の方ですね。
在这500年、600年间编织发展的佛教哲学历史进程中,释迦牟尼真正想表达的是'成为枯木'。
その500年、600年紡がれてきたその仏教哲学の歴史、発展の過程っていうものを踏まえて、お釈迦様が本当におっしゃりたかったことっていうのは、枯れ木になりなさい。
并非要对万物都保持兴趣,而是以'空'——即万物皆空的思想为基础展开逻辑,这样就能对一切苦难做出更好的应对。
すべてに興味を持ちなさんなっていうことではなくてですね、この中間、空というこの万物は空であるという考え方をベースにして論理展開をすると、一切の苦というものに対してより良い対応ができるようになりますよ、と。
这很可能就是佛陀真正想要表达的,虽然深奥难懂,但他将其异常清晰地理论化了。
これがブッダが言いたかったことなんじゃないのかっていうのを、ものすごく明確にですね、難解なんですけど、ものすごく明確に論理化してくれた。
以此为基准,大乘佛教这一传统得以确立,我认为这是历史发展的必然。那么'空'与'中观'是同一个概念吗?
ここをベースラインにして、いわゆる大乗仏教、マハーヤーナという伝統が確定的に発生してくるっていう、そういう歴史的な流れだと思うんですけれども、空と中観って同じ概念なんですか。
或者说中观是佛教思想的一个流派吗?
それとも なんか全然違う術語って言いますか、中観っていうのが、その考え方の1つの流派みたいな感じですね。
意思是观察中道的人们。
中を見る人たちっていうような意味ですね。
这个'中'字,也可以加上'道'字,称为中道,或者说中道等同于空。
この中という文字、あるいは道をつけて、中道ですね、もしくは中道という言葉がイコールで空。
希望大家能这样理解。
というんだという理解をしていただければいいかなというふうに思います。
中道并不是简单的中间平衡,确实如此。
中道って、なんかちょうど真ん中のバランスとかじゃなくて、そうなんですよ。
哦,原来是这样啊。
へえ、そうなんですね。
这也是个有趣的要点,在上座部佛教中,所谓中道确实是最普通的解释方式。
これも面白いポイントで、上座部仏教だと中道っていうのは、もう本当に普通の説明の仕方ですね。
既不偏右也不偏左,要活在恰当的中间位置,这就是中道所倡导的良好平衡,大概就是这种概念。是的,龙树菩萨却说并非如此。
右に偏ることもなく、左に偏ることもなく、適切な真ん中を生きなさいっていうのが中道良いバランスで、ぐらいのイメージで、そうですね、これがナーガールジュナはそうじゃないって言ったんですね。
有右有左,从两者等距的位置就是'中'的含义。释迦牟尼佛曾说'要行中道',这是佛陀的原话。
右があって、左があって、そっからの等距離っていうのが中という意味で、お釈迦様は、お釈迦様が言ってですね、中道を生きなさいっていうのはお釈迦様の言葉です。
实际上对于'中道'这个词如何解释,上座部的人认为左右等距就是中道。
実はこの中道っていう言葉に対してどういう解釈をするのかっていうので、上座部の人は右と左から等距離を中道だというふうに解釈をした。
我觉得这是很自然的理解。
自然なことだと思います。
但龙树菩萨提出佛陀的本意并非如此——中道不是左右等距,而是根本不存在左右之分,他主张应该这样来理解。
ところが、ナーガールジュナはそうじゃないってお釈迦様の考えっていうのは、右左の等距離が中道じゃなくて、右も左もないっていうのが中道だっていう風に、取りなさいという風に言ってるんですね。
既然不存在左右之分,那其实就是'空'的概念,所以这个中道与'空'是等同的。
右も左もないっていうのが、つまり空という概念になりますから、その中道というのは空っていう言葉とイコールなんですね。
原来如此。
そういうことなんですね。
中观也可以理解为等同的概念对吧。
中観もにやりイコールで理解していいんですよね。
是的,其中所谓'中观'正是要观察这个中道的概念。
そうですね、その中、道中という概念をこそ見なさいっていうのが中観ですよね。
应该看到的是中道,这等同于空性。
見るべきものが中道であって、これはイコールで空だと。
暂且前提是这样的,虽然可能会让人疑惑这人到底在说什么,但前提大致如此。
一応前提としてはそういう、もうこの人何言ってんだって話だと思うんですけど、前提としてこんな感じです。
目前这部分没问题。
ここまで大丈夫そうです。
没问题,没问题。
大丈夫、大丈夫です。
暂时没问题。
一旦大丈夫です。
应该没问题。
大丈夫なはず。
既然刚才提到了中道这个词,我们就顺着说下去,有右就有左。
じゃあ今ちょうどその中道という言葉が出ましたから、それに引っ掛けていきますけど、右があって左があって。
那么,这个远距离的概念——既非右也非左的为何不是中道呢?
で、それの遠距離、右でもない左でもないのが中道ではないとはどういうことか。
既没有右也没有左,这到底是在说什么?
右も左もないっていうのは一体何を言ってるんだ。
龙树的回答。
ナーガールジュナの答え。
简而言之,假设存在'右'这个概念,那么它必然是作为'左'这个概念的对立面而存在的,对吧?
簡潔に行くと、右っていう概念があるとするならば、それは左という概念の対比概念としてあることになりますよね。
确实是这样。
そうですよね。
如果说存在'左'这个概念,那么它必然是以'右'这个对立概念为前提才能成立的,对吧?
左という概念があるのだとするならば、右という対比概念を前提に左ということがあるわけですよね。
那么,要定义'右'的话,必须先明确是相对于什么的'右',否则就无法称之为右。
じゃあ、右を決めようと思ったら、何に対しての右なのかっていうのが決まらないと右が言えない。
反过来也是一样。
逆もまたしかり。
要说左这个概念,就必须定义它是相对于什么的左。
左っていうことを言うとすると、何に対しての左なのかを定義しないといけない。
也就是说,单独用右来定义右,单独用左来定义左,这是不可能的事情。
つまり、単独で右が右だけで左が 左だけで意味の定義っていうことは不可能だっていうことを言うわけですね。
既然如此,释迦牟尼所说的'既不右也不左,要走中间道路',意思就是要看清构成左右概念的那种左右之间的关系。
だとすれば、お釈迦様が言っている右でもなく左でもなく真ん中を生きなさいっていうのは、右と左という概念を成立させている、その右と左の間にある関係性を見ろっていう意味だと。
也就是说,当你说'右'的瞬间,它是指非左的右;当说'左'的瞬间,是指非右的左。
つまり右って言った瞬間に、それは左ではないものとしての右左って言った瞬間に右ではないものとしての左。
这是在观察一种关系性。
これは関係性というものを見ているんだ。
到这里我能理解。
ここまでわかりますよ。
因此,右之所以成立,是在与左这个概念的关系中,这个'右'才具有意义。
なので、右を成り立たせているのは、左という概念との関係において、その右っていうのが意味を持っている。
当说到左的时候,它是相对于右的关系之上,这个左才得以确立。
左っていう場合には、それに対する右っていうものとの関係の上に、その左が揺れる。
也就是说,万物的根源并非显现出来的右或左这类事物,而是隐藏在其间的关系性才是事物的本质。
つまり、万物の根源は、右とか左 っていう、こう現れてたものではなくて、その間に隠れている関係性っていうものが物事の正体なんだと。
因此,中道(中间之道)就是观察使右和左得以成立、存在于两者之间的那种关系的道路,这应该是龙树(Nagarjuna)的思想观点。
なので、中道中の道っていうのは、その右と左を成り立たせている、その両者の中間にある関係ということを見るっていう道が中道なんだというのがナガルジュナの考え方ということになると思います。
这个用左右来比喻的话非常容易理解,但您是说所有事物都是这样的对吧?
これ、今、右と左で例えるとすごいわかりやすかったんですけど、全部がそうだって言ってるんですよね。
是的。
そうです。
所以真的,概念之类的或许更容易理解吧,我经常去龙源先生那里听到的一个好例子就是颜色。
だからもう本当に概念とかはもっとわかりやすいかなとか、僕がよく龍源さんとか行って聞く例えとしては、わかりやすいのが、その色。
比如红色或蓝色。
赤色とか青色とかも。
关键在于,如果没有蓝色等其他色相,就无法固定红色的色相,所以要定义红色,就需要其他色相的存在。
要は、その青色とか他の色相がないと、赤という色相を固定化できないから、赤を定義しようとすると、他の色相が必要ですっていう。
说到底,是有色相这个东西的,对吧?
結局、色相ってあるじゃないですか。
嗯。
の。
它是以360度展开的。
360度広がってる。
是的,颜色是存在的。
ありますね、色。
因为是渐变色嘛,颜色这种东西。
グラデーションだからね、色って。
彩虹的话,从哪里到哪里算红色,从哪里到哪里算蓝色,或者更细地划分并命名为某种红色之类的,说到底这些都只能相对地决定。
虹の前はどこからどこまでを赤にするか、どこからどこまでを青とするか、もしくはもっと細かく分けてなんとか赤みたいな名前をつけるのか、みたいなことは、結局その相対的にしか決めれなくて。
绝对的红色这种东西,其实并不存在,对吧。
絶対的赤みたいなのって、その、存在しないですよね。
除了我们自行定义之外,红色并没有其他的存在方式,这个概念也好,颜色也好都是这样,更进一步说,事物也是如此,对吧。
僕たちが勝手に決める以外の赤の存在の仕方ってないよねっていう、その概念とか、その色とかでもそうだし、もっと言うと、物でもそうだって話になりますよね。
没错。
そうです。
也就是说,我们是通过构建意义的轮廓来进行认知的。
つまり、意味の輪郭っていうものを作って、僕たちは認識をしてるんですね。
所有的事物都是如此。
すべてのものをね。
当说到'塑料瓶'这个词的瞬间,它就已经带有某种意义轮廓了。
ペットボトルって言った瞬間、そこにもなんかその意味の輪郭があるわけ。
是从其他事物中被划分出来的。
他のものから切り取られてるわけですね。
原来如此原来如此。
なるほどなるほど。
我的喜悦之类的,虽然不属于物理性物质,但在意义上,我们仍能看到其轮廓。
僕の喜びとかっていうのも、それはあの、いわゆる物理的な物質じゃないんだけど、でも意味としては、そこに輪郭を見てるんですよね。
如果这个轮廓没有被划分确定,那么我的喜悦或痛苦就无法被言说,无法成为操作概念。
その輪郭が切り取られて確定しないと、僕の喜びとか僕の苦痛とかっていうことは、その言及することができない、操作概念にならないっていうことですよね。
原来如此,确实是这样。
そうか、そうですよね。
这样的话,所有事物都必须与其他事物或对比概念共存,只有在与对比概念及其原型的相互关系中,意义才能被确立——若不这样理解,逻辑就会崩溃。
だとすると、全ての物事ものことっていうのは全部それ以外のもの、あるいは 対比概念っていうものがあって、その対比概念とその対比元との関係において、意味っていうのが取られてるっていう風に考えないと論理が破綻しますよね。
这就是龙树(Nagarjuna)的思想观点。
というのがナガルジュナの考え方ですね。
现在正在观察时间的平面。
それが今、時間の平面を見てます。
是同时性的。
同時間的にね。
比如当我说'这是红色'的瞬间,那些不是非红色的颜色——我指的是既非红色也非其他颜色的存在——才能被定义为红色。
今この瞬間、これは赤って言った時に、赤じゃない色じゃないものを僕は赤じゃない、色じゃない色ではないものが赤ですよね。
对。
はい。
因为所有其他非该色的颜色都不属于这个颜色范畴,所以它作为对比概念显现。就像在洗脸盆里装满水,用滴管吸取后从30厘米高处滴落时那样。
それ以外のすべての色ではないものがその色なので、対比概念として見えているそうだから、本当にこの洗面器に水を入れて、スポイトで水を取って、それを30センチ上からポトッと落とすと。
在空气中下落的期间,那滴水拥有意义的轮廓呢。
空気中を落下してる間は、その水の1滴っていうのが意味の輪郭を持ってますね。
这滴可以说不是空气中的东西对吧。
この1滴って言える空気中ではないものですよね。
水不是空气,空气也不是那滴水的对比关系可见,所以那滴水,
水は空気ではないものだし、空気はその水滴ではないものっていう対比関係が見えるから、その1滴の水って、
才能被言说、被思考对吧。
いうことができる、考えることができるわけですよね。
然而当它啪嗒一声落回原水面时,就再也无法指认那滴水了,原来如此对吧。
ところが、それがポチャンと元の水に落ちた瞬間、もうその一滴の水っていうのに言及することができないなるほどですよね。
因为周围全是和自己相同的东西,所有事物就这样获得相对意义。
周りが全部自分と同じものだから、すべてのものはそうやって相対的な意味をとっている。
也就是说在相对关系这种关联性中,
つまりこれが相対関係という関係性において、
意义才得以成立。
意味は成り立っている。
没有任何事物能仅凭一己之力。
何者も自分一人だけで。
要单独确立其意义是不可能的,这是一种中间观点。如果把时间看作纵向流动的轴线,就会呈现出因果关系的概念。
の意味を成り立たせるということは不可能だっていう中間の一つの考え方で、今度時間をですね、その時間が流れる縦軸っていう風に見ると、今度は原因と結果っていう関係が出てくるわけですよ。
佛教的基本立场就是:任何事物都不可能没有原因。
あらゆる物事に無原因ということはあり得ないっていうのは、これ、あの、仏教の前提の立場ですね。
‘无因’是什么意思?
無原因って何ですか。
就是没有原因的意思。
原因がないってこと。
是的,如果说某个现存事物没有原因却凭空存在,这在逻辑上也说不通吧?
そう、今ここに存在しているものに対して原因がなく、それはそこにあります っていうのは、これもロジックとして無理じゃないですか。
如果说‘这个没有原因但就是这样’,这已经不符合逻辑了吧?
原因がないけどこれはこうだっていうのって、もうそれ論理じゃないじゃないですか。
所有事物都必须有原因,经过某种作用力,随着时间的推移才会形成某种状态,这才是合理的。
もう無理ですよね、あらゆる物事っていうのは原因があって、そしてそこに何かの作用が加わって、そして時間の経過とともにある状態になるわけですよね。
这种特定状态在被观测时,其意义就被确定下来。比如当时被那样观测并赋予意义后,就可以说一周后发生了这样的事。
その何らかの状態っていうのが、その時に観測される ことによって、その時の意味が決まり、例えばその時にそのように観測されて意味づけられたことによって、例えば1週間後にこういうことが起きましたって言って。
这种因果关系就是这样被编织出来的,对吧?
この因果関係っていうのは紡がれていくわけですよね。
那么当我们纵向观察时,原因之所以成为原因,是因为有结果存在,对吧?
だとすると、今度は縦で見た時に原因っていうのは結果があるから原因ですよね。
而结果之所以成为结果,是因为有原因存在,对吧?
結果っていうのは原因があるから結果ですよね。
如果原因仅作为原因单独存在,这会变成什么样呢?
原因が原因だけで存在していたら、これどうなるの。
就是这个意思对吧?
っていう話ですよね。
这不就完全说不通了吗?
もう意味がわからないじゃないですか。
原因仅仅作为原因存在,而根本没有结果产生。
原因が原因だけであって、結果はないんだよね。
这已经完全逻辑崩溃了吧。
って、それってもう完全に論理破綻してますよね。
反过来也是一样吧。
逆もそうですよね。
就是刚才说的那个话题。
さっきの話ですね。
结果仅凭自身存在。
結果が結果だけ存在。
存在却无原因,这在逻辑上也是说不通的,对吧?
存在していて、原因はないっていうのも論理破綻してますよね。
也就是说,事物在时间纵轴上是通过原因与结果的关系性来确立意义的。
つまり、物事は時間の縦軸においては、原因と結果っていう関係性において意味を成り立たせている。
然后,在原因与结果这一关系性的某个时间点横向截取,就能看到它与其他事物之间的相对关系。
で、原因と結果というその関係性のある一点、時間のある一点を横に切ったら、そこにそれとそれ以外っていう相対関係が見える。
这种原因与结果的纵向关系,以及相对的横向关系,它们的交汇点随着时间推移,会形成极其复杂的网络,而且这个网络...
この原因、結果という関係、縦の関係と 相対っていう横の関係の、その結節点っていうのが、もう本当に時間の経過とともに、ものすごく複雑なネットワークになって、しかもそれ。
呈现为动态的形式
が動態をとってるわけですね。
处于运动状态
動いてる。
确实如此
そうですね。
无法停止
停止できない。
一旦停止意义就会消失
停止すると意味が消滅しますよね。
因为时间无法停止,这样思考就会陷入无限连锁
時間が止まっちゃうんで、時間は止まらないと考えると、それがもうババってこう無限連鎖していく。
我们通过语言来捕捉意义的轮廓
僕たちはそれに対して言語っていうところを使って意味の輪郭を取るわけですよね。
虽然有点直接跳到结论,但当用语言勾勒出意义的瞬间,这种语言化的状态其实已经成为过去了
ちょっと一気に最後まで言ってしまうことになりますけど、言語を使って意味に輪郭を取った瞬間、その言語化された状態っていうのはもう過去なんですよね。
因为它在动所以它在动,因为时间在流逝所以时间在流逝,比如说这里有个塑料瓶装茶,从人类的认知尺度来看,这样理解是可以的。
動いてるから動いてるんで、時間は進んでるから時間は進んでるんで、その例えばここにお茶のペットボトルがありますよっていうのは、人間のね、その認知スケールとしては、それあるでいいんだけど。
但是,如果从极其微观的角度来说,电子状态之类的其实也在变化对吧。
でも、めちゃくちゃミクロな話をするとた、電子状態とか変わってるわけじゃないですか。
它确实在动对吧。
動いてますよね。
我刚才说的那个状态和现在这个状态,其实从科学角度考虑也已经发生了变化。
さっき僕がこうだって言ったものと、今のこれっていうのは、実はその科学っていうとこで考えても変化はしてるわけだし。
认知这个东西,比如我现在突然猛烈撞到头,失去所有记忆的话,就会连塑料瓶这个词都不记得对吧。
認知っていうのが、例えば僕が今この瞬間なんか、頭を強烈にぶつけてですね、記憶を全て飛ばしたら、これ、ペットボトルっていう言葉を覚えてないわけですよね。
是啊,这到底该用来干什么来着。
そうですね、これ一体何に使うもんなんだっけ。
这样。
って。
如果连能喝、里面装着茶这些都不知道的话,所有的意义就又都改变了。
飲めるとか、中のオチャとかっていうのもわかんないってなったら、全部また意味が変わってしまいますよねっていうことになるので。
也就是说一切都是那个瞬间。
つまり全てはその瞬間。
而且那个瞬间是无法捕捉的。
しかもその瞬間というのは補足できない。
当你以为捕捉到的瞬间,它已成为过去。
補足したと思った瞬間、過去になっていく。
我们观察的是那个瞬间的因果相对关系。
その瞬間の因果相対っていう関係性を見ている。
而这种关系并非实际存在的实体。
で、この関係性というのは、実存実態ではない。
由于它是永恒变化、无限可能本身,所以称之为'空'。
永遠の変化、無限の可能性そのものになっているので、これを空という。
'空'并非指什么都没有,而是指'无'的存在。
空っていうのは何もないっていう意味じゃなくて、そのなさがあるっていう意味なんですよね。
这种'无'的存在,虽然听起来有点难理解,但零的概念就是这样的。
なさがあるっていう、こういうちょっとわかりにくい表現ですけど、ゼロの概念っていうのがそうですね。
在梵语中,'空'和'零'都是同一个词'Śūnya',所以零这个符号虽然表示'无'的含义,但我们却可以书写这个表示'无'的符号。
このサンスクリット語で空っていうのも、ゼロっていうのも、同じシュニアという言葉ですから、ゼロっていうのは、ないという意味の記号ですけど、ないという意味の記号を書くことができる。
它可以作为操作概念来使用,对吧?
操作概念として使えるわけですよね。
确实,这与'空'的概念非常接近——这种'无'的特质就存在于其中。
確かにこれがその空っていう概念に近似しているなさがある、ないという性質がそこにありますっていうことなんですよね。
意思是绝对的'无'。
絶対がないっていう意味。
是的,孤立性、个别性、绝对的个别存在性,
そうですね、孤立性、個別性、絶対的個別の存在性が、
都不存在。
ない。
存在的只是在持续变化的关系中被捕捉的瞬间意义,而这些意义在被捕捉的瞬间就已经改变,所以并不准确。
あるのは、変わり続ける関係性の中で捉えられる瞬間瞬間の意味のみであって、その意味も補足した瞬間に変わってるから正確ではない。
不过为了生存,我们必须假设性地认知——比如不把这个认作塑料瓶我们就无法生活,但严格来说,当我意识到这是塑料瓶的瞬间,它与前一毫秒的塑料瓶已不相同。
ただ、生きていく上で仮にそれを、これをペットボトルと認識しないと我々が生きていけないので、そういうふうに認識しているが、厳密にこのペットボトルが、僕がペットボトルと思った瞬間とその 直前とで同じペットボトルだ。
并不存在能够将其定义为同一塑料瓶的逻辑理由,是这样吧。
と定義できる論理的な理由は存在しないそうですね。
空的概念正是指出了这一点,也就是说,并不是不存在,而是存在着某种一直在不断变化的东西吧。
っていうことを空の概念は指摘して、そういうことですね、まさにその、だからないんじゃなくて、ずっと変わり続けているっていうものがなんかあるっていうことかな。
是的,它明确指出了在关系性中不断变化的事物,却并不具有某种固化的意义。
そうですね、関係性の中で変わり続けていくものが、でもなんか固定化された意味がないっていうのをちゃんと言い切ってますよね。
至于为什么要采用这种思维方式,这就又要回到佛教想要探讨的核心了。
なんでこんな考え方をするのかっていうとこで、もう一回その仏教がやりたい。
我想关注从苦中解脱这一点,但如果像乔达摩那样说什么都没有、要停止,这就变成了对生命的否定。
苦からの脱却っていうところに目を向けたいんですけど、ジョーザブみたいに何も無い、やめろって言うと、これ生命の否定になってしまう。
对普通人来说是不可能的。
普通の人には無理。
根本无从产生兴趣。
興味を持ちようがない。
反而呢,会变成一个无法处理的概念。
逆にね、扱えない概念になってしまう。
这次反过来,与中谷所说的完全相反,主张事物确实存在。
今度、逆に中谷が言ってるのと逆さまで、物事には実在がありますよと。
所谓实存,是指它单独就能构成意义,并且不需要我们这种对比概念——即认识与被认识的关系——而作为实存存在于那里的思维方式。
実在っていうのは、それ単独で 意味を成り立たせ、そして僕たちというその対比概念ですね、認識する、されるっていうこの関係を持たずに、そこに実在としてありますよという考え方をしてしまうと。
那么会发生什么呢,也就是说。
何が起きるかっていうことになるわけですけど、つまり。
如果我追求却得不到某些东西,痛苦就会确定下来。
私が求めて得られないものがあるってなったら苦が確定するんですよね。
确实是这样呢。
そうですよね。
请稍等一下,能再说一遍吗?
ちょっと待って待ってもう一回言ってください。
虽然我得回到我最初寻求的定义,但苦是在渴求却无法获得时产生的心理作用,也就是说,当在自己的认知中意识到存在某种渴求却无法获得之物的瞬间,这种心理作用就产生了。
私が求めている定義にもう一回戻らなきゃいけないけど、苦が求めても得られないものが生じた時の心の作用なんでですね、自分の認知の中で これは求めても得られないものがあるってなった瞬間にその心の作用が発生してし。
也就是说,虽然这听起来像是'存在苦'这样的同义反复,但按照这个定义确实会得出这样的结论呢。
つまり、苦があるっていうトートロジーみたいになってますけど、その定義で行くとそうなりますよね。
意思是说会被固定下来吗?
固定されてしまうってことか。
痛苦就会变成真实存在的东西。
苦がね、本当に実在することになってしまう。
当我感受到自身的痛苦,认为'我有痛苦'时,就会觉得'既然存在那就没办法了'。
私自身に感じられた苦が ある、私には苦があるって考えてしまうと、あるんだからしょうがないっていう話なんですね。
原来如此。
なるほど。
想要摆脱却摆脱不了。
で、これ取りたいんだけど取れない。
从现状来看情况不会改变。
状況的に状況が変わらない。
因为想要的东西确实存在,得不到它的现象也确实存在,感受到的痛苦概念也确实存在,这样一想的话,只要这种状态持续。
だって欲しいものが実在していて、それが得られないという現象が実在していて、そこに感じている苦という概念が実在していて、って考えると、もうそれがその状態である限り。
就永远不可能从痛苦中逃脱了。
永遠に苦から脱出することは不可能になるわけですね。
是的,从逻辑上试图摆脱这个困境,我认为正是'苦'这个概念的意义所在。
そうですね、論理的にこれをなんとか外そうとしてるのが、この苦という概念の意義なんだろうと僕は思うわけですよね。
原来如此。
そうかそうか。
如果没有流动性就会一直存在,但如果采取流动性的立场,这种'苦'似乎就可以被移除、分解甚至消除。
流動性はなかったらずっとあることになるけど、流動性があるっていう立場に取れると、この苦が取り外し可能だったり、分解できたりなかったことにできるみたいなこと。
正是如此。
まさにそうなんですよね。
所有我们赋予轮廓并视作实存的事物,都是因其因果关系而呈现如此状态,即处于变化过程中,只是被暂时赋予了相对意义0意义。
その全ての僕たちが輪郭を与えてその実在を見ている物事っていうのは、その因果関係によってそのようであり、つまり変化の途上にあり、相対関係として今そのような意味を付与されただけだとすると。
首先会随时间流逝而变化,对吧?
まずは一つは時間の経過によって変化しますよね。
另一个是这种关联性。
もう一つはその関係性。
在与其他事物的关系中,意义总是在不断变化,对吧?
他のものとの関係の中で常に意味が変わりますよね。
当这种情况发生时,虽然可能有必须将其视为痛苦的理由,但这只是众多选择中的一种而已。
ってなった時に、その事態を苦と捉えなきゃいけない理由っていうのはあるかもしれないけど、そのたくさんある選択肢の中の一つだよっていう話になるわけですよね。
这样一来,即使状态本身没有改变、显现的状态保持不变,但认为自己必须感受到痛苦的理由就消失了。
だとすると、その状態が変わらなかった、現出している状態が変わってない としても、自分自身がそこに苦を感じなきゃいけないっていう理由っていうのが消えるっていうことなんですよね。
是可以改变的。
変化することができる。
所以就像我刚才说的,'没关系'这个说法真的很像双关语——因为没关系所以没关系,是的,抱歉。
なので、先ほど申し上げたように、大丈夫っていうのは、その、本当に、まさにダジャレみたいな、大丈夫だからって、大丈夫だ、大丈夫だから大丈夫だっていう、はい、すいません。
是的,就是这样,我无话可说了。
はい、そうですね、もうノーコメントです。
我自己在想着该怎么办。
自分でどうしようかと思ってる。
真的没关系。
本当大丈夫だから。
你的存在方式、思维方式、认知方式和关系方式都是可以改变的,所以一切皆有可能。
あなたのあり方、考え方、認識の仕方、関係の仕方っていうのは、変化するから、変化できるからどうとでもなりますよと。
所以,这取决于你自己。
なので、それはあなた次第ですよ。
不仅是你,你周围的环境也都在不断变化,所以当初那种认为自己完蛋了、没救了、只能绝望的定论是错误的,这种想法本身就是不对的。
あなただけじゃなくて、あなたの周囲の環境っていうのもそれぞれ変わっていくわけだから、もう自分はダメだとか、終わったとか、これ絶望するしかないみたいな決めつけっていうことが間違ってるんですよっていう考え方になると、その当初。
从痛苦中解脱这一目标是可能实现的。
目標とされている苦からの脱却っていうことは可能だ。
无论何时何地都可能实现,对吧?
いついかなる状況においても可能だ、ってなるわけですよね。
从逻辑推论上就会得出这个结论。然后还有什么...
論理的帰結としてそうなりますよね。あとはなんか。
说到底,如果站在世界就是这样运转的前提下,痛苦就不会产生——虽然还是同样的道理,但顺序上我个人也深有体会。
その、やっぱりそのように世界が動いているという、その前提に立つと、苦が生じないっていう、同じ話なんですけど、順番としては、なんかそっちもすごく個人的に感じていて。
比如刚才的讨论虽然超级难懂,但如果突然拉回日常生活,比方说我自己...
例えばなんか、今の話、超むずかったけど、なんか一気に日常に戻すと、例えば自分って。
不是经常会觉得自己怎么是这种人吗?
すごくなんかこんな人間でって思うことあるじゃないですか。
以我为例,我就是一个很难真心为他人喜悦而感到高兴的人。
例えば僕で行くと、自分はものすごくその人の喜びをそんなに喜べない人間で、みたいな。
这其实是在固化自己的灵魂本质,对吧?
これって自分のアートマンを固定して言ってますよね。
首先,我会定义所谓的自我特性,
まずね、私は私性みたいなものを定義し、
我认为这是一种在认知过程中既相对化又固定化的行为。
相対化しつつ、でも固定化していってるっていう作用というか行為だと思うんですよ、自分の認知の中において。
也许某个瞬间确实如此,但从某种意义上说,人并非一成不变——只要你想改变,此刻就能蜕变。
これがそのその瞬間そうだったかもしれないけど、その、ある意味そのなんか固定化する人ないんですよと、あなたが変わろうと思えばこの瞬間変われるよ、みたいなこと言われてると認識してるんで。
于是就会出现这种情况:明明我是这样的人,却能做到这样,没能变成那样;明明是我追求的东西却得不到;或者自认为如此优秀却无人赞赏。
そうすると、例えば、自分がこんな人間なのに、こうして、こうできて、こうならなかった、それは僕が求めてたことだったのに得られない、みたいなこととか、自分こんなに偉い人間なのにみんなが褒めてくれない。
我在这个行业已经取得如此成就,人们却不肯以相应的态度对待我。
僕はこんなにこの業界で偉くなったのにもかかわらず、その態度を人が取らない。
那么就不该为这种事频频沮丧,反过来也是一样的道理对吧?
これにじゃあいちいちなんか落胆しないとか、その逆もそうですよね。
即便我是如此无用之人却还活着,虽然无奈,但所有这些所谓的痛苦都只在瞬间有意义,而赋予这些瞬间意义的正是自己的认知。
こんなに自分はしょうもない人間なのに、生きてて、でもしょうがないみたいな、それらすべての、いわゆる苦が瞬間しか意味を持てないっていう話になるんで、その瞬間意味を持たせてるのがその自分の認知です。
正因为被这样告知,说'这些其实并非真实存在'的观点,我认为这才是关键所在。
みたいな話をされてるから、なんかそれって実在じゃないよねって言われてるところがやっぱりすごい肝だなと思ってる。
我们的依据是真实存在的,我这么认为。
僕たちの根拠って実在だからだと思うんですよ。
执着的起点在于,正因为那是真实的,所以才会执着于它——这是我的认知。比如自视甚高的人,其出发点就是'我确实很了不起'这个实相。
そこの執着の 発点が、それがそうだから、そこに執着してるっていう認知だと思うんですけど、例えば自分が偉いと思ってる人は、自分が偉いからっていう実在にスタートがそこだよ。
虽然我们以期待作为论据,当期待落空时就会产生痛苦,但实际上根本没有任何站得住脚的论据。
論拠として期待をして、その期待が外れるっていうのによって苦が発生してますっていうことをしてるんですけど、立ってる論拠がないよ。
有人告诉你:'你的立足点从来都是摇摇欲坠的'。
全部ずっとぐにゃぐにゃだよ、あなたの足場はって言われてるんで。
原来是在说这个啊——就像说'软趴趴的'那样,龙树菩萨提出'二边'之说,主张要脱离二边。
そういうことを言われてるんだなとグニャグニャだよつってそうなんですね、これ、ナガルジュナは2辺があって、2辺を離れるっていう言い方してるんですね。
'二边'指的是两个极端,也就是边界的意思。
2辺っていうのは2つの辺ですから、両端、端っこって意味ですね。
这两边指的就是关系中的彼方与此方。
この2辺っていうのが、つまり関係性のあっちとこっちです。
比如左右、红色与其他颜色这类总是具有意义边界的事物,就构成了这种双边关系。
右と左とか、赤と赤以外の色みたいな、必ず物事意味の輪郭を持っている物事はこの二辺関係を作ってる。
确实如此。
確かにそうですよね。
从逻辑上说,单独一个事物是无法建立关系的。
これ、論理的に単独、一つのものが関係を持つって言えないですよ。
因为关系必须要有对象才能成立,所以最小单位其实是2。
関係って相手先がないと関係できないわけですから、相手先ができる、要は最小単位が 2 なんですよね。
一边一边地。
いっぺんいっぺんです。
然后这两边存在,再从中脱离。
で、この2辺があって、その2辺を離れる。
也就是说,本质其实存在于这之间。
つまり、本質はこの中中にありますよ。
那么这里呢,我认为这是一个相当重要的点,色即是空、空即是色这个对句结构非常关键。
で、これはここね、僕、結構大事なポイントだと思うんですけど、色即ぜくう、空即ぜ式っていう対句になってるのがめちゃくちゃ重要で。
大城先生大概是在说,你看哪一边都可以。
どっちを見てもいいよって多分大城は言ってるんですよ。
也就是说,你可以去看作为被检测出的两个方面的实在性层面。
つまりその検出している二辺としての実在的な面を見てもいいんですよ。
确实可以说这里有一个塑料瓶。
確かにここにペットボトルはあるって言っていい。
但是,不,这些东西并没有实体,一切都是关系性所造就的产物,从这个角度看,认为被这些东西束缚才是奇怪的也未尝不可。
だけど、いや、こんなものに実態はなくて、全ては関係性のなせる業であって、こんなものにとらわれる方がおかしいんだっていう面で見てもいいんですよね。
原来如此。
そうなんだ。
这也就是说,关键在于要自己思考哪种方式更能帮助从痛苦中解脱。
これはつまり何でかっていうと、その苦からの脱却にどっちが効くかっていうのは自分で考えるってことです。
如果认为存在会更幸福的话,那就选择相信存在好了。
あると思った方がハッピーになるんだったら、あるの方を取ったらいい。
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因为那也是真理。
それも真理だから。
毕竟存在两面性。
だって2辺はあるんで。
但是,虽然存在两面性,并不意味着这就是作为两面性存在的。
だけど、2辺があるからって、じゃあこれが二辺としてあるのかっていうと、そうじゃないんですよ。
这是关系性导致的两面性,所以看哪边都可以。
関係性の結果、二辺があるんで、どっちを見てもいい。
你可以看这边,也可以看里面。
その辺見てもいいし、中を見てもいい。
所以像'色即是空,空即是色'这样将完全相反的概念并列的修辞手法很常见。
だから、式卒税、空速税式って逆のこと追記にしてる台上のレトリックってこれ多いんですね。
这种将完全相反概念并列的模式非常普遍。
全く真逆のことを追記で持ってるっていうパターンで、すごく多くて。
所以举个例子,用日常生活中的例子来说,比如恋人关系什么的都可以。
なので、例えばですね、まぁ日常的な例で言うと、まぁ恋人でも何でもいいでしょう。
比如把幸福寄托在有男女朋友这件事上,或者寄托在获得什么上,这就是一种偏执。
彼氏彼女がいる ことに幸せを見出すとか、得ることに幸せを見出すっていうのが、これが偏を見てるんですね。
和憧憬的对象交往了,这当然没什么不好。
別にいいんですよなんか憧れのあの子とお付き合いできるようになった。
超级开心啊。
超嬉しいぜ。
完全没问题。
何の問題もないですよ。
但这其实很危险。
ところがそれは危ないんですね。
也就是说,这已经被实体化了。
つまりこれ、実体化してる。
将其视为实际存在的东西,认为它真实存在。
実在として見ていて、実在する。
比如说一旦得到了女朋友,反过来就会产生害怕失去的恐惧对吧。
例えば彼女を得たってなったら、今度はそれの裏返しで失う恐怖っていうのが出てくるじゃん。
关键在于,明明不想要却被迫接受,这种分手的悲伤之处让人痛苦。
要は欲さないのに与えられる別れた悲しさみたいなところが苦になる。
不过现在得到了,为此高兴一下也没什么不好。
でも今は得たんで喜んでも別にいい。
然后,
で。
比如说,这个嘛,假设不幸分手了。
例えばこれがまぁ、残念ながら別れちゃったとしましょう。
然后,但是,当分手时如果只看到缺失的部分,我就不得不认为失去的我是被不情愿地夺走的,并为此感到痛苦。
そして、でも、この別れた時に 変を見てしまっていると、失われた私は不本意にも奪われた私に苦が与えられてしまったっていうことを見なきゃいけなくなるわけです。
这时就需要转向关系性本身来看待问题。
この時に関係性の方に切り替えるわけですね。
我与她拥有那样的关系,在其中我获得了什么——当我们把目光转向其中的关系性时,就有可能认为那段关系是美好的。原来如此,说白了,看待方式不同就能构建出各种关系性。
私は彼女とそのような関係ということを持ち、そこで私はどんなことを得たみたいな、その 中の関係性の話に目を向けると、その関係はあって よかったっていう風になることも可能なわけですなるほど、いやもう言うと、捉え方一つで関係性いくらでも作れる。
是的,那段关系究竟是怎样的呢。
そう、その関係がどんなものであったのか。
她和我交往后又分手了,这些都是人际关系造就的结果,如何看待这种变化的关系,其实并非现实本身,而是可以平等看待的。
彼女がいて、お付き合いをして、そして別れましたって、これ全部関係性のなせる技なので、その変化する関係性っていうものを自分がどう捉えるかっていうのは、実態じゃないんで、同等でも捉えられるわけです。
你可能会想,早知道会这么痛苦还不如不交往。
こんな辛い思いをするなら付き合わなきゃよかったって思うこともできるし。
但那段时光确实给我带来了幸福,这次分手也让我学到了东西,这样想不也可以吗?
いやでもあの期間っていうのは本当に幸せをもたらせてくれたし、この別れも僕に何かの学びを与えてくれたんだっていう風に捉えることだってできるわけじゃないですか。
这就是'由你自己来选择'的思维方式。
それはあなたが選んだらいいんですよっていう考え方をしてるんですね。
说到为什么,如果执着于观察那些备份预约和克拉克之类的事情,一旦失去就完了不是吗?
それ何のためにって言うと、バック予約陸とクラークのためにこれを、その辺を見るっていうことに固執すると、もう、だって失われたら終わりじゃないですか。
是啊,如果每次拥有很多钱就觉得幸福,那钱被夺走你就完蛋了吗?
そうですね、お金をたくさん持ってるごとに幸せを見出していたら、じゃあそのお金が奪われたらあなたは終わるんですか。
就会变成这样的讨论。
って話になる。
确实是这样啊。
確かにそうか。
所以,为拥有金钱而高兴也没什么不好。
なので、お金があることに喜んでも別にいいんですよ。
关键在于你要意识到自己当下关注的是哪一面,这实际上是一种元认知能力,能够灵活切换看待巴克夜乐陆与乐的视角,这大概就是开悟者的力量所在。
それはどっちを今見てるんだっていうことを、まさにメタ的にですね、自分が知覚して、バック夜楽陸と楽のためにその視点を使い分けられるっていうのが、多分悟った人の力っていうことになるんですね。
是在提出建议呢。
提案をしてるんですね。
已经有点...
もうなんか。
或者说并没有强制要求的意思对吧。
っていうか強制はしてないってことなんですね。
正是如此。
そうなんですよ。
所以上座部那些派系在这方面'必须这样做'的强制性很强。
なので、上座部とかの方は割とその、こうしろ っていうのが強いんですね。
他们主张'不要产生兴趣'、'不要有欲望'、'立刻停止',这种导向非常强烈;而到了中观思想、大乘佛教这边,则更倾向于'让我们从逻辑上思考应该是这样对吧'。
興味持つなって、欲するな、やめろっていう方向性がすごく強いんだけど、中間思想、大乗の方になってくると、いや、論理的に考えてこうですよね、と。
所以,刚才深井先生总结过了,摆脱痛苦的可能性在你身上是无限扩展的,对吧。
で、なので、先ほど深井さん、まとめていただきましたけど、苦から脱却できる可能性っていうのは、あなたにおいて無限に広がってますよね、と。
并且,在那无限扩展的可能性中,你可以选择自己想要的、能够达到的部分,这是自由的。
で、その無限に広がる値の中で、あなたが取りたいところ、取れるところっていうのを取ったらよろしいのであって、それは自由なんですよ。
这大概就是大乘中观思想的精髓吧,虽然感觉存在某种方向性,比如被告知要怀有慈悲之心,但虽然有方向性,却仍是自由的。
っていうのが、多分ね、その大城の中間鉄の肝ですねなんかベクトルはある気がするんですけど、例えばその慈悲の気持ちを持ちなさいとかって言われてるから、ベクトルはあるものの自由ですよね。
在那个方向性中,自由是被提倡的,有这种感觉对吧。
そこのベクトルの中で自由が推奨されてるっていう感じがありますよね。
所以菜单上有那个色即是空菜单和那个税率式菜单,请问现在哪个更好呢?
だからメニューがあって、あの色即ぜくメニューと、あの税率式メニューありますけど、どちらが今どっちがいいですか。
类似这样的。
みたいな。
可以根据喜好选择,实际上一直有种双重标准的感觉,或者说两者皆可,那种某种意义上不稳定的状态,正是量子力学中的波粒二象性呢。
お好みで、みたいな、なんか実際ずっとダブルスタンダードというか、どちらともでもあるっていう、その、ある意味不安定な、そのね、まさに量子力学が波と点粒ですよね。
这与物理学中两者皆可的说法非常类似,我总觉得它们之间存在很强的类比性,虽然本质上在观察的瞬间就已经确定了。
どちらとでもあるみたいな話の物理の話に、すごいアナロジカルに一緒だなと思ってるんですけど、本来どちらともでもありますと見た瞬間にそれが確定してるんだけれども。
他们说这取决于你的认知来决定最终确定哪个方向,我觉得可以这样理解。而且如果深入应用这个观点,会发现非常有趣,比如现在SD等领域的语境。
それはあなたの認知でどちらに確定するかが決まりますと言われてるっていう風に捉えられると思うしなんかこれめちゃくちゃ応用していくと、すごい面白いなと思ってるのが、例えば今、あのsdとかの文脈とか。
在社会影响力的语境下存在社会议题这类讨论对吧?
社会インパクトの文脈で社会課題があるみたいな話あるじゃないですか。
那个,我完全不觉得这能适用得上啊。
あれ、めっちゃ僕これ適用できると思っててないよね。
所以关联性确实是存在的。
だから関係性はあるよ。
但是,如果真把社会议题当作实际存在的东西,我觉得会出现各种问题。
けど、社会課題という実態があるとしてしまうと、僕、いろいろエラーが出ると思うんですよ。
为什么会有这个社会议题存在呢?然后要将其量化、解决,好像总得有个可怜虫存在,然后我们这些拯救者也得存在似的。
なんでその社会課題が あるっていうところから、で、それを定量化し、解決し、みたいな、かわいそうな人っていうのがいてみたいな、このかわいそうな人を助ける我々がいてみたいな。
是的,没错。如果把刚才的讨论往更悲观、可能更容易理解的例子上引的话,比如有个让人火大的家伙,特别讨厌那家伙说这种话,最后闹僵了——这种人谁身边都会有一两个吧。
はい、そうですね、今の話をもっと悲観なね、多分分かりやすいかなと思う例に引き落とすと、例えば、むっちゃ腹立つ奴がいると、こいつバリ嫌いみたいな、こんなこと言いやがって、仕上がってっていう人、まぁ1人ぐらいいるじゃないですか。誰しもね。で、
这种情况其实很常见。
普通はその辺である。
看着愤怒的我和惹怒我的这家伙,就会给他贴上坏人的标签。
ムカついてる私と、ムカつかせたこいつっていうのを見て、こいつ悪いやつってレッテル貼るんですね。
这样一来,就会产生想揍他一顿、必须排除他,或者因为实在太讨厌而想要逃避的想法,这就是停留在表面观察的状态。
そうすると、殴ってやろうかとか、排除しなきゃいけないとか、もうこいつもうほんと嫌だから俺逃げようみたいな話になるんだけど、これがその辺を見てる状態ですね。
其实那样也无妨。
別にそれでもいい。
但另一种看法是,如果深入观察、审视本质会怎样呢?那就是他那样的行为方式让我感到愤怒。
だけど、もう一つの見方としては、中を見る、空を見るとどうなるかっていうと、彼のそのようなあり方が私をムカつかせている。
当我看到这里存在我对他那种样子感到恼火的关系时,看到那个令人恼火的家伙就无计可施了。
私は彼のあのようなあり方にムカついているという関係性がここにあるって見た時に、ムカつくやつっていう辺を見るとどうしようもないんですよ。
那就会变成是否要用武力压制的问题,但既然关系是那样的关系,那么改变关系的方式不就好了吗?
それこそ物理的に力を制圧するかみたいな話になるんだけど、関係性がそういう関係性としてあるんだよねって 見ると、じゃあ関係の仕方変えたらいいんじゃない。
原来如此,关系中也存在因果关系,比如时间上的因果关系,所以要观察它是如何绵延不断导致这种关系出现的,然后有意识地进行干预。
なるほどっていうのが、関係にも因果があって、時間的因果みたいなのがあるから、それがどう連綿と続いて、この関係性が現出しているかみたいなのを見ながら、そこにまぁ意識的に介入して。
因为可以改变自己的立场,通过改变立场来改变关系,这样显现出来的方面就会改变,对吧?
自分の立ち位置を変えることはできるから、変えて関係性を変えることで、あれですよね、現れてきてる辺が変わるわけ。
对,改变这种状态,就能改变自己内心的反应。
そう、辺を変えてしまって、自分に対する心の作用を変えていくみたいな。
龙玄先生会武术这个例子,我们一开始就提到过吧?
龍玄さんって武術やってるっていう説明最初したじゃないですか。
用武术来解释的话,这些道理就变得特别容易理解。
武術で説明されると、めっちゃわかりやすいですよね、この話とかって。
没错,通过身体感受会非常直观。
そうですね、体で感じるとすごいわかりやすい。
怎么说呢,当对峙时人的发力方式或距离感发生变化,整个局面就会完全改变。
そのなんていうか、対峙してる人間の力の抜き方とか、距離感とかが変わると、全部変わっちゃうんですよね。
这不是理所当然的吗?
当たり前じゃないですか。
从物理角度看就是这样啊。
物理で考えたらそうでしょ。
比如,对于直冲而来的力量,只要侧身让过就不用正面承受。
そのね、例えばだけど、まっすぐ来てる力を横にすかしたら、受けなくていいからスーってできたりするじゃないですか。
当被要求在概念层面去操作时,就会恍然大悟,原来如此。
それを概念上でやれって言われてるとなるほど、なるほどそうです。
存在方式,作为显现关系的一边,只要自己有所认知,那就是其中一边。
あり方、その現出している関係性の一辺なんで、自分が認識している以上は、その一辺である。
是自己在构建这种关系。
自分がその関係っていうものを作ってる。
如果改变构建方式,
その作り方を変えると、
那么作为另一边的对方也必然随之改变,从意义上来说。
反対側の辺である相手っていうのも変わらざるを得ないんですよね、意味が。
顺便说,我在研究这个的时候,觉得真正能很好体现这一点的,果然还是社区护士啊。
ちなみに僕がこれ勉強してて、そのすごい体現してるなと思ってるのが、やっぱりコミュニティーナースはこれを体現してるよね。
那根本不是什么救助可怜人的事业,对吧。
まさにそのかわいそうな人間を助けてる事業じゃないよね、あれ。
每个人都既能成为被帮助的人,也能成为帮助他人的人,这种根据当下情况而变化的空性概念被接纳后,那些固化的关系就...
みんなが助けられる人にもなり、助ける人 にも慣れて、それはその時々のバージョンによって違うんだっていう空っぽ概念が入った上で、その固定化された関係性って。
大家都没注意到这一点吧。
うのを気づかないじゃないですか。
社区关系确实在有效运转呢。
コミュニティーな関係性が確かに動いているよね。
在不断变化的关系中,让所有人建立起互助体系,这正是与社会课题解决者们相比,我认知中最大的不同点。如果用佛教来解释的话。
動き続けている関係性の中で、全員が相互扶助体制を築くんだっていう風に持っていってるのが、やっぱりその社会課題解決するんだって言ってる人たちとの僕の中で一番の違いであり、そして仏教を使えば。
这其实是能够解释得通的。
これが実は説明ができるってことなんですよね。
原来如此。
なるほどね。
确实如此。
まさにですね。
所以像矢田先生他们所做的,我们也认为完全是佛教理念,试图以慈悲为前提来改变这种变化的关系。
だから、矢田さんとかがなさってるのも、もろ僕らは仏教的だと思っていて、その変化する関係性っていうものを、慈悲っていう前提で変化させようとしてるわけですよね。
自己成为这个关系的一端,作为一边发挥作用。
自分がそこの関係の一端となって、一辺となって 作用する。
也就是一对一的关系。
つまり1対1。
虽然这又是另一个话题,但确实是一对一的关系形成了那种状态。
これもまたちょっと別の話ですけど、1対1関係でそのような関係になってる。
遗憾的是这里出现了不幸的关系性,那么该怎么办呢?从逻辑上说,改变这种关系就行了。
で、ここに不幸な関係性が現れてるっていうのは残念なんだけど、じゃあどうしたらいいのかっていうと、その関係性を変えればいいわけですよね、論理的には。
但问题在于,要是能轻易改变的话早就去做了。
で、そんなことできたらやっとるわっていう話なんですよ。
正因为双方都无法改变这种关系,所以才陷入了僵局。
そこで関係性をお互い変えることができないから、その関係性がスタックしてるわけですよね。
社区护士所做的,就是为那些陷入僵局的不幸关系建立另一个新的关系轴。
コミュニティーナースがやってるのは何かっていうと、そのスタックしちゃった 不幸な関係性にもう一個別の関係軸を作るわけですよね。
这样一来,随着新关系的介入,原本一对一的关系就会发生变化。
そうすると別の関係性が入ってくることによって、それまであった1対1の関係っていうものに変化が起こるわけですよね。
这种引发变化的方式,就叫做慈悲。
この変化の起こし方を慈悲っていう。
通过一种叫做‘巴克约拉克利克托克拉’的方式,不是让某人牺牲,也不是让某人忍耐,而是增加一种让所有人都能幸福的关系,那些僵化的人际关系就会突然发生改变,对吧?
バクヨラクリクトクラクっていう、誰かが犠牲になるのでも、誰かが我慢するでもなく、みんながハッピーなようにっていう関係の加え方をする、そのスタックしてた人間関係っていうのが、パッと変わったりするわけですよね。
实际上,他们不就是在实践这个吗?
それ、実際にやっておられるのが彼らじゃないですか、実践してて。
那么认知方面,之前我们讨论的是通过改变认知来改变关系,但现在社区护士的做法是——
そうすると認知も、この場合は今までの文脈っていうのは認知を変えて関係性を変えることができるよねって話をしてたけど、今のコミュニティーナースの話は。
即使有人无法改变认知,通过让持有不同认知的第三方介入,突然改变关系,原本对峙的力量就会‘咔嚓’一下消失。
仮に認知が変えれない人がいたとしても、そこにその違う認知を持った他者が介入して関係性をパッと変えることによって、その対峙してた力の入り方とかがカクって抜けちゃって。
就像立场突然一下子发生了改变。
スポンと立ち位置がボンと変わっちゃうみたいなことが起こる。
因为是概念层面的操作,所以搞不清楚在做什么,虽然我们一直说社区护士的工作很难解释,但这种难以解释的原因
それを概念でやってるから、その、何やってるかわかんないし、そのコミュニティーナースの説明が難しいって話は昔からし続けてますけど、この説明が難しいのって。
归根结底是因为没有从空性的角度理解世界啊。
やっぱり世界を空的に捉えてないからですよね。
确实如此,所以如果像笛卡尔那样说'我思故我在',以我的存在为前提来行事的话
そうですね、だから本当にデカルトのようにですね、我思う、故に我ありって言って、私の存在を前提にやってしまうと。
这正是一神教的观点,如果神的旨意认定你就是这样的人,那就无法改变,也不知道该如何接触。
まさに一神教的にですね、神様の意図として、あなたはこんな人ですっていうのがあると変わりようがないし、どう触っていいのかわかんないですよね。
那种思维方式虽然可以用来区分对错,但对于不断变化的人际关系,就变得难以解释了。
あの考え方っていうのは、合ってる間違ってるみたいなものを峻別するのには使える概念なんだけど、その変化する関係性みたいなものっていうのは、ちょっとうまく説明しにくくなってくる。
如果运用这种中间哲学,就能非常清晰地解释,也能让人突然明白该怎么做。
ここがその中間の哲学っていうのを使うと、ものすごく綺麗に説明ができるし、どうやったらいいんだっていうのも結構パッと簡単に見えるようになるんですよね。
真有意思。
面白いですね。
确实,我自己就有三四个亲身经历的例子,比如第一个,当有了孩子后,夫妻关系会发生巨大变化...
いやなんか僕、3つぐらい確かになっていう事例が、僕の実体験からあって、もうババッと言うと、1個目、やっぱ子供できた時に、夫婦の関係性変わるとこがめちゃくちゃある夫婦やったら、なんか。
当有了孩子后,原本各自坚持'我要这样做'的想法,都会转变为以孩子为中心,很多对立就会自然消失。
いや、俺がこうした、いいや、私はこうしたいっていうのがあるのが、子ができたらこのために全部が動くようになるから、まずここのなんか対峙しないようになるとかもあるし。
还有就是,当有外部威胁时人们会变得团结,通过转换立场角度,就能促使双方开始合作。
あとは、なんか外敵がいると仲良くなるみたいなのも、これもなんか、あの、関係性、いわゆる、その、向き合ったところから、パッとずらすことによって、お互いが協力し合うになるとかもあると思ったし。
另外我觉得相声组合的关系模式也特别典型。
あとは漫才コンビとかもめちゃくちゃ関係性だなと思って聞いてました。
漫才组合里通常一个人负责装傻,另一个人负责吐槽,但当那个负责装傻的成员单独上其他节目时,却会疯狂地扮演吐槽角色。
ある人はボケ、ある人はツッコミっていう関係性で漫才するけど、じゃあ違う番組にその漫才コンビの一人がボケの人が出た時に、めっちゃツッコミやってたりするんですよ。
这其实说明人的行为并非由个人特质决定,而是由所处的关系场决定的。另一个关键点是,这种关系性据说在每分每秒都在剧烈变化。
これってその場の中でどう振る舞うかっていうのが実はこの人の性質じゃなくて、その場の関係性によって決まってるっていうので、めちゃくちゃあるんですねなんかもう一つやっぱポイントだなと思うのが、その関係性がまさに瞬間瞬間で相当変わるって言われてるなとも思っていて。例
举个例子,如果还原到个人烦恼层面来看,'因为我是这种人,所以会反复陷入这种痛苦'这种模式确实具有可重复性对吧?
ばなんていうかな、さっきのなんか個人の悩みにまた還元して考えると、僕がこういう人間だから、こういう苦しみが再現するよねっていうのは、確かに再現性があるじゃないですか。
但我在学习佛教时经常听到这样的说法:那种可重复性...
けど、なんか仏教を勉強してて、なんかこう、ずっと言われてんなと思うのは、その再現性。
他们说可以在一瞬间就停止这种模式。
一瞬で止めれるよって言われてる。
真的假的?这么神奇?
なるほど、マジでみたいな。
你会觉得'怎么可能瞬间停止'对吧?
止めれないでしょ、一瞬でって思うじゃないですか。
毕竟我们都是这样被养育长大,几十年来都这样生活,怎么可能说停就停呢?
だってこんな風に育って、何十年間もこうやって生きてきて、止めれんやんみたいな。
不过,佛教哲学确实告诉我们,实际上为了停止(烦恼),需要各种技巧,所以修行是必要的。虽然修行本身大概很辛苦,也需要时间,但从认知层面来说,就是一瞬间的事。
けど、なんかやっぱり仏教哲学から言われてるのは、実際は止めるためにいろんな技術であるとか、だからこそ修行とかが必要で、その修行自体は多分大変だし、時間もかかったりすると思うんだけれども、その 認知レベルで行くと、一瞬だよ、みたいな。
从逻辑上来说,正因为它是一瞬间的事,比如就像社区护士那样厉害的人,在其他公司...当然社区护士也不能解决所有问题。
論理的にはね、一瞬だからこそ、例えばそのコミュニティーナースみたいなすげー上手い人が、他社で、コミュニティーナースも全てを解決できるわけじゃないですけど。
通过干预而瞬间改变的情况,我也亲眼见过很多次。虽然不能说人家是超级顽固的老头...
介入されて一気に変わることとか、やっぱ僕も目の前で何度も見たし、ものすごい偏屈じじいって言っちゃダメ。
就是个顽固老头啊。
もう偏屈じじいがですね。
就像那种典型的怪脾气老头,一旦被冷落,整个发力方式就会突然改变。因为根本没有固化的自我,我确实见过这种人改变,自己也有亲身体验。
ザ・変クズじじいみたいな人が、やっぱりこう、スカされて、一気に力の入れ方が変わっちゃうみたいなところとかって、その固定化された自我なんてが無いから、本当はなんか変わってるの見たし、自分の実体験でも、確かにその。
虽然容易固化的特性是存在的,但这些东西并不具有绝对性——这点我确实隐约能够理解。
固定化しやすい性質は持っているが、それが絶対性がないっていうのはなんとなく確かにわかるなっていう気がしていて。
该改变的时候瞬间就会改变。
一瞬で変わるときは変わる。
他们说'能够瞬间改变'这个事实才是重点——我觉得这个观点特别有道理。
この一瞬で変われるという事の方がファクトですよって言われてるっていうのは、なんかポイントでめっちゃなって思ってますね。
确实如此。
そうですね。
所以,作为龙树(Nagārjuna)的观点,归根结底,固定化的是语言本身。
なので、ナガルジュナとしては、だから、結局、その固定化するのは、言葉が固定化するよね、と。
因此,在语言运用上必须格外谨慎——我认为这是最关键的要点。
なので、この言葉の使い方っていうのには細心の注意を払わなきゃいけないんだっていうのが 最後のポイントだと思うんですよね。
虽然我们确实在重复使用某些表达,但如果不勾勒出意义的轮廓,就无法形成可操作的概念,对话也就无法成立。
やっぱりその、僕たちは意味の繰り返し使ってる表現ですけど、意味の輪郭っていうのをつけないと、操作概念にならないから、お話とかができないんですよね。
就像用语言快速勾勒出我手中茶饮料瓶的轮廓那样,但我们必须清楚に认识到这只是虚构——中川淳一郎先生的主张中,这一点非常重要。
だから言葉を使って、これは僕のお茶のペットボトルみたいなところで輪郭をパッパッ作っていくんですけど、それはフィクションですよっていうのがわかった上で使おうね っていうのが、この中川淳一郎さんの主張の結構大きなとこなんですよね。
所以说,使用语言就会产生局限。
なので、言葉を使ったらかんっていう。
那难道我们就该一直说些无意义的拟声词吗?
じゃあ俺らずっとうほ、とか言ってたらいいの。
虽然话是这么说,但实际情况是存在二元对立,我们需要超越这种对立——必须勾勒意义轮廓,但同时要清醒认识到这只是虚构。
みたいな話になるわけですけど、そうじゃなくて、2辺があって二辺を離れようっていうことなので、意味の輪郭は取らないといけないんだけど、それは虚構だよっていうことがわかった上で扱っていこう。
所以我才这么固执啊。
だから俺は頑固なんだよ。
虽然可以说‘我就是固执’,但这会因关系而瞬间改变。我觉得如果被‘我很固执’这个意义框架束缚住,最终只会产生痛苦而没有任何好处。
っていうのは言ってもいいけど、それって関係性によって一発で変わりますから、俺は頑固だっていう意味の枠組みにとらわれてしまうと、結局苦を産むだけで何もいいことがないですからねっていう話だと思う。
让我们在使用语言时意识到它有改变的可能性。
そこに変わりうる可能性を意識しながら言葉を使いましょう。
是啊,实际上是在变化的,但我觉得是因为自身的固着而导致自我被固定化了。
そうですね、実際は変わるけど、自らの固着によって自らが固定化しているっていう感じなんだと思う。
实际上是在变化的,但正是因为自己抗拒改变才没有变化。
実際は変わる けど、そこをまさに自分が嫌がって変えてないから変わってない。
就是这么回事呢,从这里就连接到有识了。
そういうことですねっていう、ここから有識につながっていきますね。
哦,那么,下回是有识篇。
おお、ということで、次回有識です。
不错不错。
いいねいいね。
接力棒传得真漂亮。
すげーバトンがつながる。
天空虽然如此,但就像这样。
空はそうなんだが、みたいな。
天空就是天空,但我们的认知如何作用于它,这类话题被进一步分析过。
空は空なん なんだが、自らの認識はそこにどう作用していくか、みたいな話をさらに分析してあるわけですね。
关于有式的讨论我们之前也聊过,不过最好还是请原来的老师来讲,好的就这么办吧。
で、まぁ有式の話は過去ね、僕たちも喋りましたけど、ちょっと元々の先生から喋ってもらった方がいいと思うんで、なるほどそうしましょう。
也就是说剧情上是从第二话过渡到第三话对吧。
ということは、関係性的には2話から3話に行くってことですね。
虽然现在什么都没说呢。
これから何も言ってないけどね。
幸好那里没说出口。
そこに言わなくてよかった。
那么今天就到这里吧。
ということで、今日は以上ですかね。
非常感谢。
ありがとうございました。
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