本集简介
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拜托了。
お願いします。
好的,请多关照。
はい、よろしくお願いします。
哎呀,您终于来了啊。
さあさあ来ましたね。
这里还涉及到唯识论,所以佛教的基础概念终于能通过这个来掌握了。
ここにさらに唯識が絡んでくるんで、だいぶ仏教の基礎概念がそれで習得できる状態にやっと鳴るんですよ。
听到唯识的时候,可能觉得自己已经懂了,但其实还差得远呢,大概还只是自以为懂了唯识而已,哎呀呀。
唯識まで聞くと、多分今なったつもりになってるけど、まだね、まだ多分唯識つもりになってるんで、おいおい。
那么,该从哪里开始讲唯识好呢?
ということで、唯識どこから喋ったらいいんだろうね。
是啊,先说说认识的五个方面可以吗?
そうですね、とりあえず認識が5つのそう当てでいいですかね。
是的,首先前提是,这个最开始也说过,我不是学者,也不是必须坚持正统学说的立场,而且唯识这东西还挺麻烦的。
そうですね、まず前提として、これ一番最初にもお話したんですけど、僕は学者ではないし、なんかそのオーソドックス説を堅持しなきゃいけない立場でもない 上で、唯識って結構厄介で。
那个,所谓大乘佛教的标准唯识观点,与密教中作为概念使用的唯识,在方法论上有些不同之处。
あの、いわゆる大乗仏教のスタンダードな唯識の考え方と、密教で使う概念としての唯識って、ちょっと作法が違ったりするんですよ。
咦,是这样吗?
あれ、そうなんですか。
这正是我觉得难以理解的地方,所以大家经常在书店看到诸如唯识入门之类的书。
そこがまたわかりにくいところだなと思うので、よく皆さんが書店とかで唯識入門とかね。
如果购买《轻松读懂唯识》这类书籍,通常里面都会精准地阐述作为大乘心理学的唯识解说。
よくわかる唯識とかをお求めいただくと、大概は、その大乗の心理学としての唯識の解説がピチッとしてあるんですね。
原来如此。
なるほど。
嗯,那本身也很重要,但我的立场呢,在密教中运用唯识进行冥想、或者调整其思维方式这方面,有着不同的认识。
で、それはそれで大事なんだけど、僕の立場ですね、その密教で唯識を使いこなして瞑想をしたり、そのものの考え方っていうのを調整したりっていうところでは、ちょっと違う 認識をし。
是这样的。
たりするんですね。
今天我想以这个为基础来谈,但前提是,希望大家能回想起来,一切皆空这个前提是存在的。
今日はそっちを ベースにお話しすることになると思うんですけど、前提としてですね、思い出していただきたいですけど、一切が空であるっていう前提があります。
一切皆空,一切皆空啊。
一切皆空、一切皆空ですね。
空吗?
空か。
不是空哦。
空じゃなくてね。
不是空哦。
空じゃなくてね。
万物皆空。
全ては空だ。
要说空究竟是什么,那就是关系性。
空っていうのは一体何かっていうと、関係性だ。
空这个字其实就是关系性的意思。
空っていうのは関係性という意味なんですね。
这个嘛,其实没多少人会这么说的。
これもね、あんまりなんか言ってる人いないんで。
不过我认为,如果用‘关系性’这个词来替换‘空’的概念会更容易理解
と思うんですけど、僕は空っていうのは関係性という言葉で代入するとわかりやすいと思っています。
空就是关系性、因果关系、相对关系这些关系的本质
空は関係性、因果関係、相対関係という関係っていうものが正体であると。
那么,万物都因关系性而不断改变其意义
じゃあ、万物は関係性によって意味を変え続けている。
是的,最后那个...也就是我
そうですね、その最後の、つまり私、
作为认知主体的我而言,所有事物都在我眼中形成暂时的意义轮廓
認識主体である私にとって、全てのものが、その意味を、仮のね、意味の輪郭をとる。
最后的那个关系性是什么呢?就是认知与被认知的关系
最後の関係性は何かっていうと、認識する、されるっていう関係性なんですね。
正是在这里,认知这个概念才得以完成
ここにおいて認知っていうものが完成するわけですよね。
当然,这其中还存在各种中间状态和有识之士的不同观点。但无论我是否去认知,比如深井先生、樋口先生、YanYan先生等人,都会在各自的语境和因果关系中不断改变存在方式
つまり、これもちょっといろんな中間の中にも、有識の中にも考え方いろいろあるんですけど、僕が認識しようがしてまいが、例えば、深井さん、樋口さん、やんやさんとかは、それぞれの文脈で、因果関係で、それぞれのあり方を変化しなが。
他们正在展示这一点,但今天,此刻,因为我们共同在场,所以我认识到了,但在我没有认识到的期间,对我来说他们就是不存在的。
ら示しておられるんですけど、今日、今、場を共にしてますから、僕は認識してますけど、僕が認識してない間、僕にとっては存在してないことになるんですね。
是的,确实如此,没错。
ですね、そうですね、はい。
但即便如此,存在本身并没有消失。
でも そこで存在が消えてるっていうこともないわけですよね。
也就是说,它被还原为潜在的可能性了。
つまり、ポテンシャルに還元されてるわけですね。
当我进行认知时,这种认知的广度就作为各自的因果关系而存在,而这正是作为认知主体的我的因果关系。
僕が認識した時に、このように認識するっていう幅っていうのが、それぞれの因果関係としてお持ちであって、それがその認識主体である私の因果関係。
是存在的。
がある。
就在那个时间点交汇时,就会形成‘啊,是深井先生’这样的认知。
その一点で、時間軸交わった時に、あっ、深井さんだっていう認知になる。
而如果是在人群中没注意到的话,可能就真的不会察觉呢。
で、ひょっとして人ごみで気づかなかったら気づかないなるほどですね。
所以,我并不会认为樋口先生是鲸鱼。
で、僕は樋口さんのことをクジラだとは思わないわけですね。
也就是说,鲸鱼超出了我认知的可能性范围。
つまり、その認知の可能性の幅から外れてるクジラは。
但是,如果我撞到头变得有点不正常的话,可能会觉得你是鲸鱼。
でも、僕が頭ぶつけてちょっとおかしくなっ ってしまうと、クジラだって思うかもしれない。
那也就是说,关系性发生了变化。
それはつまり、関係性が変化したということですね。
简单来说,就是认为两边都发生了变化这样的思考方式对吧。
要は2辺が変化したっていうような考え方をするわけですね。
也就是说,彼此认知的可能性范围、被认知的可能性范围,各自作为因果关系持有,当这种相对面对面的认知与被认知关系建立时。
つまり、そのお互いに認知する可能性の幅、認知される可能性の幅っていうのは、それぞれの因果関係として持っていて、それがこの相対的に向き合って認知する、される関係を取り結んだときに。
从彼此持有的潜力范围中确定出具体点,对我来说这是深井先生,对我来说是阳阳先生,就这样确定下来。
そのお互いの持ってるポテンシャルの幅から 点が確定して、私にとってこれはフカイさんだと、私にとってはヤンヤンさんだというふうに確定していく。
这又会随着时间发生变化,所以它们这样连续不断地串联起来,认知这一点得以成立,这就是意识的大致概念。
それがまた時間とともに変化をするわけですから、それがダダッとこう連なっていって、その認知っていうところが成り立ってるっていうのが、有識の大まかな概念。
原来如此,就像函数图像的交集一样。
なるほどなるほど、関数のグラフ の交わりみたい。
确实,确实有一点需要确认,那么,首先是我和龙玄先生的存在。
確かに、確かに1点確認なんですけど、じゃあ、僕と龍玄さんがまずあります、います。
而当龙玄先生认识我的时候,樋口被认识的范畴,是我所持有的属性吗?
で、龍玄さんが僕を認識するときには、樋口の認識される幅は、僕が持ってるプロパティですか。
然后。
と。
我也持有这些属性。
僕も持ってます。
而龙玄先生则首先独自拥有认识樋口所需的属性。
で、龍玄さんは、樋口を認識するためのプロパティを、龍玄さんが独自でまず持っている。
首先,作为我的因果关系,我持有这些属性。
まず、僕の因果関係として、僕が持ってます。
是这样的吧。
ですよね。
而龙玄先生对樋口的认知范围与我自身持有的认知范围之间,那个间隔或者说空隙,就像是在看我的窗口一样。
で、この龍玄さん側の樋口認識幅と、僕が持ってる樋口認識幅の、なんか間というか、空いてるところが僕を見てる窓みたいな感じになってる。
就是这么回事。
そういうことですね。
这个理解没错。
てことあってる。
对对对。
はいはいはい。
所以这与樋口先生自身的认知无关,而是我当时持有'樋口先生会如何被我认知'的这个范围。
なので、樋口さんの認知とは関係なく、樋口さんが僕にどのように認識されるかっていう幅をその時に持ってるんですね。
比如当对方总是以完全不同的装扮出现时,就会产生'咦?'
例えば、いつも全然違う格好をされてるってなった時に、あれ。
可能是陌生人
知らない人かも。
这样的可能性就存在于那个范围里。
って思う可能性がそこにある。
如果穿着芭蕾舞演员的服装来,就会觉得奇怪。
バレリーナの格好とかで来たら、あれ。
虽然我们没请芭蕾舞演员。
バレリーナ呼んでないけど。
可能会变成这样。
なってなるかもしれない。
对对,如果杨艳戴着金色假发和红帽子低头走路,就会觉得奇怪。
そうそう、ヤンヤンさんが金髪のヅラをかぶって、赤い帽子をかぶってうつむいてると、あれ。
是不是樋口啊。
樋口さんかな。
会这么想的对吧。
って思ったりするわけですよね。
但是杨艳没有这种因果关系。
でも、ヤンヤンはそういう因果関係を持ってないからね。
因为她没有金发和红帽子的这种关联性。
金髪と赤い帽子という因果を持ってないから。
原来如此原来如此,现在说的就是YanYan先生的广度对吧。
そうだそうかそうか、今で言うヤンヤンさんの幅ですよね。
是的,广度就是YanYan先生的广度。
そう、幅ヤンヤンさんの幅です。
然后,比如说如果我视力变得更差,又恰逢黄昏时分完全看不清的话,可能会因为认不出是谁而选择不打招呼,产生这样的认知。
で、僕が例えばもっと目が悪くなっちまって、しかも夕暮れ時で全然見えないみたいなことになると、ちょっと誰かわかんないから声かけるのやめとこ、みたいな認知になるかもしれない。
这种认知与被认知的关系会根据具体情况随时发生变动对吧。
それはその時その時で 認知・非認知っていう、認知する、されるっていう関係が変動するわけですよね。
在那些变动的因素中,作为认知主体必须决定一个点,对吧。
その変動する中で、認知主体としてある一点を決定しないといけないわけですね。
所谓认知,就是在认知的结果中,那个瞬间临时的、上次我们详细讨论过的临时意义轮廓就会显现出来。
認知するっていうことは、その認知した結果、その瞬間の仮の、これ、前回散々お話した仮の意味の輪郭っていうのがそこに現れる。
然后,如果将其实体化,那就是所谓的陷阱了。
で、それを実体化すると、それは罠だっていう話ですね。
所以说,一切都取决于认知主体。
これだから、認知主体にすべて。
刚才提到有两个属性,关于樋口先生的属性也可以理解为是认知主体自身作为信息持有的属性,对吧?
さっきプロパティ2つあるって出てきたけど、樋口さんについてるプロパティも、この認知主体の自分側に情報として持たれてるプロパティという理解でいいですよね。
存储区域是哪一边呢?
保存領域はどっちなんですか。
存储区域是这边对吧。
保存領域こっちだよね。
是这样吗?
そうなるんですか。
我认为是双方的问题。
双方だと思います。
双方都有可能。
双方にあり得る。
所以,被认知一方的状态,即我能认知到的被认知方状态,是属于这边的问题,它并非实体,不是实体。
そうだから、認知される側の状態、僕に僕が認知することができる認知される側の状態というのは、こっちの問題なんで、それは実体はしない、しない。
因为是变化,樋口先生具有变化的属性,比如突然变胖,或者突然变瘦像变了个人,这些都是这边的问题。
変化ですから、変化して持っている樋口さんのプロパティがあって、例えば、急に太ったとか、急に痩せて別人みたいになってるとかっていうのは、こっちの問題なんで。
樋口先生确实经常这样做呢。
樋口よくしますもんね、樋口さん。
这样一来我可能就无法识别了,所以这应该是双方平衡的结果。
そうすると僕が認識できないかもしれないっていうことになるので、これお互いに釣り合ってるはずなんですね。
这个我也不能完全确定学术上是否100%正确,但在中间思想的变体中,这属于最标准的中归谬论证派的观点。
これちょっと僕もほんと 100 学術的に正しいかっていうのは微妙なんですけど、中間思想のバリエーションの中で一番スタンダードってされてる中間帰謬論証派っていうカテゴリーの考え方です。
就是刚才那个。
今のやつがですね。
归谬的‘谬’是指错误观点。
帰謬っていうのは、カエルに誤ビューですね。
就是‘谬误’的意思。
過ちっていう意味。
认为对方也拥有属性存储器的观点就是这样的。
相手もストレープロパティストレージ持ってるって考えるのがそう。
持归谬论证派观点的人基本上都采用这种消极论证方式。
そう考え、帰謬論証派っていうのは基本的にそのネガティブな論証の仕方をするんですね。
在思考问题时,先设定这样的过程,然后逐步推进逻辑,比如在某个地方出现错误,那就说明前提错了,于是将其剔除。
ものを考えていくときに、こういう過程を置いてみて、論理をずっと進めていくと、例えばどっかでエラーが出た、じゃあ前提が間違ってたよねっていうので、これ削除。
然后尝试设定另一种假设,再推进逻辑,结果还是在某个地方出现了逻辑矛盾。
じゃあ次こういう仮定を置いてみて、論理を進めてみて、やっぱどっかで何か論理破綻が起きた。
这种不断排除被判定为'出局'的选项,只保留未被淘汰的思路方法,就是归谬论证,据说这是龙树本人的立场,但还有另一种。
アウトって言ってアウトにならなかったやつだけを残していくっていうものの考え方が帰謬論証って、これ、ナガルジュナ本人の立場だったと言われてるんですけど、もう一つですね。
还有一种叫做'自流论证',它认为认识与被认识的关系暂且不论,各自都具有作为因果关系的意义,这就是自流论证的观点。
自立と書いて自流論証 っていうのがあって、それはつまり、認識する、される関係はとりあえず関係なく、それぞれに意味を因果関係として持ってるよね、って考えるのが自流論証ですね。
各自都有要点。
それぞれに要。
无论我是否认识樋口女士,樋口女士通过她自身的因果关系和相对关系,已经确定性地拥有了她本人的意义,对吧。
僕が樋口さんをどう認識しようがしまいが、樋口さんは樋口さんの因果関係と相対関係によって、ご本人の意味っていうのはもう確定的に持ってますよね。
这样的思考方式,自流论证——自立什么的,听起来有点像实在论呢。
みたいな考え方をするとは、自流論証って自立ですねなんか実在論っぽいですけどね。
逐渐变得像了。
ぽくなってく。
只是在变化这一恒定状态下,虽然不是实在论,但顺便说一句,那位樋口先生具有属性,樋口先生拥有存储。
ただ変化するっていう一定において、実在論じゃないだけど、ちなみに、その樋口さんがプロパティで、樋口さんがストレージ持ってる。
这种理解是:我的认知正在访问那个存储。
そのストレージには、僕の認知がアクセスしてるという理解。
是的。
そうです。
认知主体终究是各自独立的啊。
認知主体はあくまで各自なんですね。
各自独立。
各自です。
如果自己不确定意义,就无法让别人来为你确定意义,所以,嗯,虽然说得有点复杂,但樋口先生您自己就拥有属性存储。
自分が意味を確定しないと、人から意味を確定してもらうことはできないので、そうか、ややこしいことを言いますけど、樋口さん樋口さんでプロパティストレージ持ってて。
我是说我拥有自己的属性存储,并且在我内部还存有对樋口先生的属性存储,是这个意思吧?
僕は僕のプロパティストレージと対樋口さんのプロパティストレージを僕の中にまた持ってるって、そういうことですよね。
所以,而且,这两者都在不断变化着呢。
だから、で、この双方は変化してるんですよね。
也就是说,各自都存在一定的宽度,这样的想法。
で、そこに幅がそれぞれあって、っていう考え。
这个能稍微传达清楚吗?
これちょっと伝わるかな。
这个例子可能不适合用樋口先生来比喻。
これ、多分、樋口さんで例えない方がいいですね。
其实或许用塑料瓶之类的来比喻更好,塑料瓶首先具备着使其被视为塑料瓶的那种因果关系。
それこそ、ペットボトルとかで多分例えた方が良くて、そのペットボトルはペットボトルとして見なされるような因果関係っていうのを、ペットボトルがまず持ってます。
也就是说存在一个范围,是有范围的。
幅としてね、幅があるんですね。
比如说,它是透明的,或者瓶盖在上面,或者是圆柱形状,拥有各种属性。
例えば、透明であるとか、キャップが上についているとか、円柱状の形であるとか、色んな持ってるってことですね。
拥有信息这一点也是如此,该怎么说呢,从这个塑料瓶作为人造物这一点起,它就具有可被如此看待的倾向性。
情報持ってるっていうのもそうだし、何て言うんですかね、このペットボトルが人工物であるというところからして、そのように見なされ得るトレンドを持ってるってことですよね。
就是这么回事,这个。
そういうことですね、これが。
这就是因果关系呢。
それが因果ですもんね。
比如它是人造的这类原因,为此应该存在某种意图性的原因,而且它既不是玻璃也不是木头,从作为现代人的我们看来。
人間に作られたとかいう原因とかがあって、それのためには何か意図もってるだろうみたいな原因があって、で、ガラスでもなくガラスでもなく木でもなく で、現代の現代人である我々から見ると。
这个塑料瓶自身就具备会被视为塑料瓶的属性。
これはペットボトルであろうというふうにみなされるような属性をペットボトル自身が持ってます。
它作为因果关系而具备着。
因果として持ってます。
它作为因果相对性而拥有。
因果相対として持ってます。
它拥有因果关系性。
因果関係性として持ってる。
是的,这个我认为是塑料瓶,对吧,这个。
はい、これを僕がペットボトルだ だよね、これは。
它还拥有容易被识别为塑料瓶的信息。
って見出しやすいような情報も持ってます、と。
也就是说,比如亚马逊的与世隔绝部落,他们就没有塑料瓶这个概念,对吧。
つまり、例えばアマゾンの非接触民族とかだったら、ペットボトルという概念持ってないんで、そうですよね。
将无法被认知的塑料瓶作为塑料瓶来识别的那种因果关系。
認知できる可能性がないペットボトルをペットボトルとして見出しやすいような因果を。
而且我也是这样这样,作为对塑料瓶的信息持有。
また僕がそうですそうです、対ペットボトル情報として持ってますと。
是的,另外还有,另外不说也行吗?
はい、それと別に、別にじゃなくていいのか。
所以全部就只有这些吗?
だから全部それしかないのか。
是的,最终自己也拥有那种认知能力。
そうです、結局自分もそのなんか認知能力を持っている。
自己也会因因果相对而变化,所以总是这样这样。
自分も因果相対によって変化しているので、常にそうだそうだ。
所以认知是存在的。
だから認知はある。
也就是说,虽然有认知存储,但除此之外没有其他实体存在,对吗?
その認知ストレージもあるけど、それ以外の実体がないってことか。
其实认知和认知存储全都是因果关系和相对关系的结果,虽然不能完全断言,但我们的认知时机似乎就是这样运作的。
認知も認知ストレージも全部、結局、その因果関係と相対関係の結果なんであるっていうことも、実はやっぱり言えない けど、そのように作用してるものっていうのが、この僕たちの認知のタイミングというか。
这种认知是通过时间尺度来确认的感觉呢。
その認知、タイムスケールによって確認されているっていう感覚ですね。
虽然无法捕捉作用结果的瞬间,但至少可以说在这一点上确实发生了这样的作用,是在说明某种现象。
作用の結果、この瞬間っていう補足はできないものの、どうやらこの一点において、そのように作用したということが言えるところまでは確かですって言うんですね、何かを。
我实际上曾经有过一瞬间的瞬间性失忆经历。
僕、実際ちょっと一瞬、瞬間的記憶喪失になったことあるんですよ。
压力过大时真的会突然断片呢。
ストレスかかりすぎた時に飛ぶんですよね、本当に。
就像这样聊天时,确实会出现'啪'地一下记忆中断的瞬间。
バーって、こうやってお話した時に、ふって飛ぶ瞬間ってやっぱりあるんですよ。
这样一来,在那个瞬间认知否认关系就会发生变化,成为我们这边的问题领域。
で、そうすると、やっぱその瞬間に認知否認関係っていうのが、こっち側の問題地で飛ぶっていうことはあるんで、変わっちゃう。
所以,并不能说存在认知能力呢。
だから、認識力があるっていうのは言えないってことですね。
只是连续地确认了它曾经存在过,而这实际上是离散而非连续的流动过程。
あったということが連続的に確認されているだけであって、それはその流体的 にですね、この連続じゃなくて離散なんだっていうことですね。
啪嗒啪嗒。
パンパン。
既然会发生'存在过、存在过、然后消失'这样的事情,那就说明它并非作为连续体而具有实体。
過去あったあった消えたみたいなことが起きるわけだから、その連続体として実態を持っているわけではないっていうこと。
是啊,虽然说得有点吓人。
そう、やばいこと言ってますけどね。
现在说连续体没有实体,这相当严重啊。
今、連続体としての実態がないって相当やばいっすけどね。
所以说不定明天醒来世界就不存在了。
これだから明日起きたら世界があるかもわからない。
甚至可能连自己都不是自己了。
わからない自分が自分じゃないかもしれないかもしれない。
也就是说,作为自我的连续体并不存在因果关系,对吧?
自分としての連続体である因果がないって、ないっていうことですね。
哇,这个观点真是……
うわ、これは。
不过确实经常会想到这些呢。
でも結構思うことあるんすね。
那个,我能先插一个无关紧要的话题吗?
いや、もうちょっとどうでもいい話1回挟んでみていいですか。
我特意稍微、稍微有点激动,那个,我今年暑假和孩子玩得非常开心,他现在小学二年级。
あえてちょっと、ちょっとガーってなってるから、あの、僕、今年の夏休み、子供と遊んでめっちゃ楽しかったんですけど、今小 2 なんすよ。
当我想到明年他就要成为小学三年级的孩子时,我并没有意识到这是个连续存在的孩子。
来年小 3 の子供になるなぁと思った時に、連続してる子供って認識しなかったんですよ。
那个瞬间就发生了变化呢。
その瞬間変わってますね。
也就是说,小学二年级时的我觉得捉迷藏很好玩,但到了三年级可能就会觉得捉迷藏很无聊想玩Switch了吧。
ってことは、要は小 2 の の時のワイ、鬼ごっこ楽しいっていうので、小三やったら鬼ごっこダリーはスイッチに聞きたいはってなるかもしれないじゃないですか。
那么,可以享受玩捉迷藏的乐趣。
じゃあ、鬼ごっこ楽しめる。
当想到这孩子将永远消失时,就无法再认为这是个连续的孩子了,感到非常难过。
こいつはもう一生いなくなるなってなったら、連続してる子供って思えなくなって、ものすごい切なくなったんですよね。
但这正是我们讨论的话题,对吧。
それはでも、その、まさにそういう話ですよね。
不过这个讨论的是关于消失的话题,对吧。
ただこれ、消失するっていう話ですよね。
意思就是不存在连续性,对吧。
連続してないっていうことですよね。
因果关系看似连续,但实际上是离散的。
因果関係が連続的に連続的であって、でも離散なんですけど。
就像翻页动画一样,画面是间断切换的,所以理论上存在某个瞬间画面突然消失或突然跳跃的可能性,对吧。
こう、本当にパラパラ漫画みたいに、こう、パッパッてなってるので、ある瞬間にパッて絵が消えるとか、急にワープするとかっていうことも、これ、論理的にはないわけではないわけですよね。
确实像动画呢。
確かにアニメか。
确实是这样呢。
そうですよね。
龙树菩萨就说过'逻辑上并非不可能'这样的话。
論理的にはないわけではないよってナーガールジュナが言ってるんです。
唯识派是世亲和无著。
ユイ式はアサンガとバスマンドゥ。
对对,没错没错,就是唯识派。
そうかそうか、そうだそうだ、ユイ式。
这已经是在讨论唯识派的理论了。
これはもうユイ式の話になってるからなってるんですね。
是的,这正是大乘佛教所主张的。
そうですね、その大乗仏教が言ってるわけですね。
原来如此,原来如此。
これはね、なるほどなるほど。
意识不连续这个观点,其实早在代序之前就存在了,意识本身就是离散的。
意識は連続ではないっていうのは、もうあの代序以前からそうですからね、意識っていうのは、その離散的であると。
这个指摘很犀利啊。
それ、やばい指摘ですよね。
从实际感受来说,我们确实没有那种体验呢。
実感としてありないですもんね、自分たちの。
但是,这和上次讨论的空性直接相关,如果意识是连续的,那不就意味着它有实体了吗?
でも、あの、前回の、その、空の話と、もろにやっぱり関わってて、意識が連続なんだったら、実体があることになるじゃないですか。
因为是离散的,所以瞬间的因果和相对性才会显现,并成为后续事物的原因,这种因果就像接力一样传递下去,在这个意义上它是连续的。
離散なんで、その瞬間瞬間の因果とか相対っていうのが って現れて、で、そして受け継がれていく次のものの原因となって、受け渡していく因果がリレーのように受け渡されているという意味で連続的なんだが。
据说认为每个瞬间的奔跑者都不同才是更准确的世界理解方式。
その瞬間瞬間の走者が違うっていう捉え方をした方が正確な世界理解だよと言われている。
对对,并不是某个东西平滑地移动,而是这样一棒一棒地传递下去。
そうそう、ベターッと何かが移動していくんじゃなくて、このトントンと受け渡されていっている。
所以,突然发生剧变是完全有可能的,对吧?
なので、いきなりパーンって変わることはあり得るわけですよね。
如果接力棒掉了就无法连续,所以会突然出现不连续的情况。
バトンを落としたりしたら連続できないので、急に連続しない何かが出現したりとかする。
所以才能顿悟啊。
だから悟れるんですよ。
这是什么意思?
どういうことですか。
就是说能突然顿悟呢。
いきなり悟れるってことね。
因为不连续所以很抱歉。
連続しないからごめんなさい。
现在,对话不连续了。
今、話が連続しなかった。
突然就被切换了。
いきなりカットバンって変わられた。
所以,那个,突然在禅修中能够顿悟是什么情况呢,或者说,在冥想中能够开悟是什么情况呢,是因为不存在连续的自我这种东西。
だから、その、いきなり 禅の修行とかで、いきなり悟れるっていうのは何かっていうと、とか、その瞑想とかで悟れるって何かっていうと、連続した自我みたいなのが存在しないんで。
也就是说,偶然间突然顿悟是有可能发生的。
アクシデンタルにいきなり悟ることがあり得るよってことです。
对对对,不然的话,比如用列车来比喻,就是你好不容易坐车到了东京,结果目的地其实是博多,那不就完蛋了嘛。
そうそう、じゃないと、例えばその電車の例で言うと、なんかこう、電車乗って東京まで来たけど、ゴール博多だった ってなったら、もうダメじゃんってなるわけですよ。
得这样掉头回去才行,寿命可能都来不及,但因为是离散的,所以直接从东京跳到博多也是有可能的。
グーってこう行って戻ってこないといけないんで、寿命間に合わんとかってなるんだけど、離散なんでパンパンって東京博多ってあり得るわけ。
就是瞬间移动嘛。
ワープやワープですよね。
这种情况确实可能发生。
それはありえるんですよ。
所以说,通过那种跳跃方式也能顿悟。
だから、そのポンプでも悟れるっていう。
确实如此,就像翻页动画那样,突然变成动画影像了对吧?
それはそうだ、本当にパラパラ漫画の、なんかアニメ映像になってるんですか。
没错,就像你以为在看《鬼灭之刃》,突然变成《哆啦A梦》那样的动画也是有可能的嘛。
そうそう、バーッて鬼滅の刃かなって思ってたら、いきなりドラえもんになったみたいな アニメだったらあり得るじゃないですか。
好的好的好的好的。
はいはいはいはい。
确实,比如画面切换或者时间突然跳跃这种情况是可能发生的呢。
カットが変わるとかね、時間がバンって変わるとかあり得ますからね。
不过,我想分享一个自己的经历,比如说我做过手术,就在今年二月做了个削除部分鼻骨的手术。
でも、ちょっとこれは僕の体験で、1個言うと、手術したことがあって、つい今年の2月に鼻の骨をちょっと一部削る手術をしたんですよね。
那是我第一次接受手术,喝了类似镇静剂的东西后就失去意识了。
まぁ手術受けるの初めてで、鎮静剤みたいなの飲んで意識を失ったんですよね。
真吓人啊。
怖いね。
那个,我经历了一次非常奇妙的体验,被送进手术室躺下后,听到医生说‘现在要打麻醉了’,然后‘啊’地一下感觉轻飘飘的,下一秒就在病房里醒过来了。
ちょっとね、そうなんかすごい体験をしてですね、手術室に入って寝かされて、今麻酔かけますよって言われて、あぁ、ちょっとふわっとなった次の瞬間なんか病室で起きた。
中间完全没有时间间隔呢。
ない間がないですね。
做胃镜时的镇静剂也是这种感觉吧。
カメラの時の鎮静剤もそれそうですね。
然后就这样,眼睛怎么也睁不开。
で、こう、目を開けられないんです。
但那时我意识还在,周围的人在说着各种事情,我能感觉到他们在搬运我,但我说不了话,也睁不开眼睛。
でも意識はその時まだあって、で、周りの人がいろんなことを話してて、僕を運んだりする感覚はあるんですけど、喋りもしないし、目も開けられないんですよね。
过了一会儿终于能睁开眼睛说话了,但那种断联感对我来说是一次非常震撼的体验,让我意识到人生中竟然可能存在这样的断联时刻。
しばらくするとやっと目が開けられて話せるようになったんですけど、あの断絶は僕の中ですごい衝撃な体験として残ってて、僕の人生っていうか、僕なんか断絶することってあり得るんだっていうか。
不过能这样经历、体验这种感觉——和睡觉又不太一样——让我现在突然想起,当冥想进入深层时,也会有类似时间跳跃的感觉。
でもそうかけることって、こういう感覚を味わうことがあるんだっていう、また寝るとは違うんですよねなんかちょっとそれを今思い出しましたなんか、あの瞑想とかも深くなってくると、時間がリープした感じは。
或者类似的情况。
したりする。
可能确实很接近呢。
近いかもしれないですよね。
是大脑中发生的作用很相似吗?
脳で起こってる作用が近いんですかね。
接受麻醉的时候,虽然意识看似连续同一地移动,但实际上是被不断传递的离散性存在,我是这样理解的。
麻酔を受けやった時なんか、まぁでもやっぱり意識が連続同一のものが移動してるわけではなく、受け渡され続けている離散的なものであるっていう理解ですね。
然后,以一切皆空的关系性这一逻辑为前提,将其作为最终的关系性来认知、被认知的,瞬间就成了塑料瓶。
で、それを一切が空である関係性であるっていう論理を一応前提に、その最後の関係性として認識する、されるっていうのが、瞬間的にパッペットボトルです。
然后,下一个瞬间也是塑料瓶,塑料瓶这样连续不断地出现,
で、次の瞬間もペットボトルです、ペットボトルですっていうのがタタって続いてるっていうのが。
这就是我们的认知方式,而这种认知为我们创造出了具有一个个意义轮廓的世界万象,
僕たちの認知のあり方であって、その認知っていうのが我々にとってその一つ一つの意味の輪郭を持った世界の神羅万象っていうものを作り出している。
也就是说,如果我这种离散的意识状态发生变化,那么我所创造的意义轮廓也会改变,简单来说,对我来说世界看起来就变了,
つまり僕のその離散的な意識のあり方っていうのが変化すると、僕が作っているその意味の輪郭っていうのが変わるわけだから、平たい言い方をすると、私にとっては世界が変わったように見える。
但是,并不是世界变了,而是我的认知方式变了。
でも、世界が変わったんじゃなくて、私の認知のあり方が変わった。
或者我认知的对象也会因其自身的因果关系而改变,因此当对方的因果关系发生变化时,我的认知方式也会改变,世界看起来就不同了。
もしくは私が認知する相手も相手の因果関係で変わるんで、その相手の因果関係が変わったことにより、私の認知のあり方が変わって世界が変わったように見える。
所以并不是单方面外部在变动,而是相互的。
だから一方的に外部が動いてるわけではないんですよ、お互いに。
毕竟是在这种相对关系、因果关系的基础上进行认知与被认知,我的认识使得世界发生变化,这就是一种思维方式。
やっぱりこの相対関係、因果関係を持って認識する、されるっていう関係のもと、私の認識として世界が変わっていくっていう風な ものの考え方をするっていうのが。
这就是唯识的基本立场。
唯識の基本の立場なんですね。
这还只是基础部分,太厉害了。
まだ基本だからやばいよ。
这还只是基础呢。
まだ基本なんですよ。
这样唯识就讲完了吗?
これで唯識終わりじゃないですか。
还没结束呢。
終わりじゃないですね。
嗯,不过基本上就是这样了。
まぁでもほぼほぼこれなんですけど。
不好意思,我可以再问一个问题吗?
すみません、もう一個質問してもいいですか。
可能是我还没太理解,我想再问一下之前讨论的内容。
またちょっと、多分僕わかってないから、ちょっと前の話されたことを質問。
虽然可能会变成关于空性的问题,但能否请您再解释一下空性与认知之间的关系?
空に対する質問になっちゃうかもしれないんですけど、空と認識の関係性についてもう一回解説していただけますか。
所谓空性,并非指所有事物都具有独立孤立的实体存在,而是看起来如此的事物
空っていうのは、全てのものに独立孤立の実在的な存在っていうものが確定しているということではなく、そのように見えているものは、
其实是错误的,其两边的本质实际上是它们之间的关系性
変であって、その二辺の本質っていうのはその間にある関係性だそうですね。
并且,并非没有两边,也并非有两边,而是有两边、离开两边,通过关系性两边显现,通过两边存在和显现,这种关系性被认识到,这就是中观思想的根本
で、別に二辺がないということもなく、二辺があるということもなく、二辺があって、二辺を離れて、その関係性によって二辺が現れ、二辺があること、現れていることによってその関係性っていうのが認識されるっていうのが 中間思想の根本でした。
在这个原则下,最终认识力这种东西,不知为何存在
で、その原則のもとで最終的に認識力というもの、なぜかある。
我们作为生命体,在彼此的因果关系中认识并赋予万事万物——森罗万象中每一个事物的意义轮廓,也就是那个二边的意义轮廓。
我々生命体として、僕たちがその何事か、神羅万象一つ一つを認識している意味の輪郭、その二辺であるところの意味の輪郭を付与しているのは、そのお互いの因果関係の中で認識する。
当这种‘被认识’的关系产生时,就像我所认识的那样,被认识一方——即认识对象的意义便暂时确定下来,这恰恰与量子力学中的双缝实验非常相似,可以作为一个绝佳的类比。
される っていう関係が発生した時に、私が認識したように、その相手側、認識された側の意味が仮に決まるっていうことなんで、これがまさにですね、あの量子力学の二重スリット実験の話に、めちゃくちゃアナロジーとして似てるんですよね。
原本以波函数幅度形式存在的电子,通过被认识这一行为,便会在这个幅度中选取某一个特定的点。
その本来波動関数の幅として存在していた、その電子 っていうのが、認識することによってその幅の中のある1点を取るっていうことですね。
就是这样呢。
ですもんね。
所以,非常相似。
なので、すごくよく似てる。
从表达方式来说,虽然不是在说完全相同的事情,但作为一种类比,认知这件事是相似的。
表現としてはね、全く同じことを言ってるわけじゃないと思いますけど、まぁなんかアナロジーとしては似てますよね、認識というものは。
该怎么说呢,嗯,解释的对象和'空'有点不一样是吧?
何ていうか、こう、説明してる対象がちょっと空とは違うっていうことですかね。
是的,看待的视角不同。
そうですね、見てる視点が違う。
我们来看更具体的部分。
より具体的なとこ見てます。
有识者认为事物是空性的,但构成这种空性二元对立的是认知。
有識者は 物が空想なんだが、その空想の二辺を作っているのは認識だという理解です。
没错没错。
そうですそうです。
正是如此。
もうその通り。
所以只要不被认知,就只是空想,只是可能性而已。
だから認識がかからない限り、空想のままなんだけど、可能性のままなんですね。
正是因为被认知,虚空中才会产生两边,从而具有意义。
認識がかかるから、空の中に2辺が生じていって、意味をなすわけじゃ。
要让塑料瓶被认知为塑料瓶,必须存在认知主体。
ペットボトルがペットボトルとして認識されるには、認識主体が存在しないと。
首先我们会认为,一个不被任何人认知的塑料瓶不可能作为塑料瓶存在。
誰も認識してないペットボトルがペットボトルとして存在することは不可能であるとまず考えるよね。
是的,由这种物质构成的东西存在于世界上,没有生物也是可能的,但如果说它是塑料瓶就没有意义了。
そうですね、そのこの物質で成り立ったものが世界にあって、生き物がいないってことは可能なんだけど、そのペットボトルであろうとすると意味がないんですよね。
不被认知的话,不被那样认知的话就不会产生意义,所以虽然存在却没有意义。
認識されないと、そう認識されないと意味が生じないので、存在はするけど意味がないですと。
这就是潜在的状态对吧。
それがポテンシャルの状態だよね。
如果这种状态不被认知就没有意义,所以认知变得极其重要,而在这门哲学中,分析这种认知是什么的就是有识者。
その状態に認識がかからないと意味をなさないから、認識っていうのが超重要になってくるんだけど、この哲学において、じゃあその認識とは何かを分析しようというのが有識者。
是的,有这个前提,所以认知能力到底是什么。
そうですね、その前提があって、だから認識力って一体何。
这个问题变得非常重要了,对吧?
っていう問い、めっちゃ大事ですよねっていうところになってくるわけですよね。
原来如此,明白了。
なるほどなるほど。
那么,认知是什么呢?
じゃあ認識するって何。
或者说,认识是什么。
とか、認識とは 何。
这就是认识论的方向。
っていうのが、有識論の方。
是的,还处于这个阶段。
そうですね、まだ。
所以这只是入门阶段。
だから入り口なんです。
这是什么意思呢?
これなんでしょうか。
好的,我可以继续吗?
はい、続けていいんですか。
请继续。
お願いします。
请继续。
お願いします。
好的,那么我想继续讲,归根结底,整理一下就是。
はい、じゃあ続けていきたいと思いますけど、で、結局ですね、整理しますと。
作为认知主体的'我'——这里的每个人,各位每一个人,大家都是这个'我'。
認識主体である私、これ一人一人、皆さんお一人お一人、みんなその私ですね。
对于第一人称单数的'我'而言,世间万象不过是通过我的认知,由我暂时赋予意义的存在。
一人称単数の私にとって、世界神羅万象とは、私が認識したことによって、私が仮の意味を付化してるだけのものなんですね。
首要的关键点在于:世界本身并不具有实体。
世界の方に実体があるわけではないっていうのがまず大きなところです。
这就是所谓的'一切皆空'与
これが、その一切が空であるっていうのと、
相关联的概念。
関わる概念なんですね。
所有事物都是如此。
全てのものは。
这种关系性,即可能性的范围存在,并通过将其作为最终关系性,由我来认定'这是塑料瓶'、'这是麦克风'、'这是桌子',从而使意义的轮廓得以明确化,对我而言这里就是这样的世界,这就是这样。
その関係性という、その可能性の幅があって、それを最後の関係性として、私が、これはペットボトルだ、これはマイクだ、これはテーブルだって認識することによって、意味の輪郭っていうのが明確化して、私にとってここはこういう世界だ、これはこうだ。
那么我又是谁呢?
そして私は何者だ。
我是日本男性,身高170厘米——所有这些临时定义的意义不断被确立,比如比平均身高矮啦,比平均体重重啦。
私は日本人男性、身長 170 センチっていう、全部その仮の意味っていうのがパンパンと決まっていって、平均身長よりも低いとかですね、平均体重よりも重いとかですね。
正是通过这些对比概念,我们才能认知世界。
そういう対比概念っていうので、世界っていうのを検出している。
这样一来,话题又回到了最初的命题。
だとすると、これまた最初の命題に戻ります。
佛教的根本目的是从苦中解脱。
仏教の根本目的は苦からの脱却です。
那么,说到如何从苦中解脱,了知一切皆空便是中观派的一个答案,对吧。
じゃあ、どう苦から脱却するのかっていう時に、一切が空であることを知ればいいというところが中観の一つの答えだったですよね。
但是,即便被告知只需了知一切皆空,具体又该如何去做呢?
で、でも一切が空であると知ればいいって言われましても、具体的にどうやって。
这就是接下来要讨论的问题了。
っていう話になるわけですよ。
所以,现在能够回答这个问题的可能就是唯识思想吧。
で、そこに今答えることができるのがこの唯識かなと思って。
也就是说,是你的认知将痛苦确定为痛苦,是你的认知认为那不是痛苦,或者你的认知从中看到了必要性,所以它才是必需的,而因为无法得到才变成了痛苦。
つまり、あなたの認識が苦を苦として確定させているのであって、あなたの認識がそれは苦ではないとか、あるいはあなたの認識がそれに必要性っていうものを見ているから、だからそれが必要であって、手に入らないから苦だってなってるんで。
也就是说,当认知方式改变时,曾经认为绝对必需的东西也可能变得并非如此。
つまり認識のあり方が変わると絶対必要だって思ってたものが別にそうでもなくなってくるわけだし。
也就是说,曾经认为只是痛苦的事情,也有可能变得不再是那样。
これは苦しみでしかないって思ってたことがそうでもなくなるっていうことがあり得るわけですよね。
因此,要从痛苦中解脱,就需要审视自己的认知方式,巧妙地控制它,从而在自己内心实现离苦得乐、获得力量,这是可能做到的。
なので、その苦から脱却するためには、その自分の認知のあり方っていうところを見て、それを上手にコントロールして、自分の中でバック与楽、力得楽っていうことを成し遂げるっていうことは可能だし。
所以我们应该这样做,对吧?
それをするべきだよねっていうことになってくるわけですよね。
既然如此,那么如果我不正确理解那个为世界赋予意义轮廓的我的认知力究竟是什么,就无法进行控制和分析,所以,
だとすると、じゃあその私が世界に意味の輪郭を付与している私の認識力とは一体何なのかっていうことを正しく知らないと、コントロールのしようもないですし、分析もできないということで、その。
非常精密地进行心之分析学,这就是唯识的基本态度所在。
心の分析学っていうのをめちゃくちゃ精密にやるっていうのが、唯識の基本的な態度になるというところですね。
在此基础上,密教所处理的唯识学中的认识力分析,提出了存在5个阶段9种认识力,作为这5阶段9种认识力的组合技综合值。
その上で密教っていうのが扱っている、その唯識っていうところの、その認識力の分析っていうところは、5段階 9 種類の認識力があると、その5段階 9 種類の認識力の合わせ技総合値として。
我们实际上是在进行所谓的认知完成,这是一个结论。
僕たちはいわゆる認知の完成ということをやっている っていうのが一つの結論なんですね。
重要的是逐一审视这些,并逐一学会控制它们。
これを一個一個見ていって、一個一個自分がコントロールできるようにしていくっていうところが重要ですよね。
这就是最终得出的结论。
ということになってきます。
那么,这9种中的前5种,都集合在最开始的阶段。这就是,
で、この9種類のうちの最初の5つっていうのが、一番最初の段階っていうところに集合しています。これが、
某种前置的5种认识模式。
何かの前にある5つの認識の式ですね。
它们以‘前五识’的名称集合在一起。
前後式という名前で、これ5つが集合していると考えています。
这是第一阶段。
第1段階目です。
简单来说,这就是所谓的五感。
これは平たく言うと、いわゆる五感ですね。
五感。
五感。
可以理解为看、听、闻、尝、触这五种感觉,这样理解基本没错。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るっていう五感のことだと思っていただいて、そんなに間違ってないです。
严格来说,其实还有一些细节需要说明。
精密に言うと、ちょっといろいろあるんですけどね。
不过呢,过于追求精确也没什么意义,我觉得大致上兼容理解就可以了。
あんまりこう、精密にしてもしょうがないんで、まぁざっくり互換でいいと思います。
那么,在这个兼容理解的阶段,按照唯识的观点来说,比如以视觉为例,虽然意义的轮廓尚未被赋予,但感知的方式已经确定,这就是前五识中现量识的认知作用。稍等
で、この互換の段階だと、唯識の考え方だと、その、例えばね、視覚っていうところで考えると、このなんだろう、意味の輪郭が付与されていないが、そのように知覚されているっていう意味が確定する のが、その前後式のその現式目の式という識覚なんですね。ちょっと待
那个,呃,请把刚才的内容再说一遍,
って、それ、えっと、もう一回今の、ゆっくり言ってください。
请说慢一点好吗?
ゆっくり言ってくださいいですか。
那个,意义的,能看到的,能看到。
あの、意味の、見えてるんですよ、見えてる。
这些东西能看到是确定的,是认识到的,前后式呢。
こういうものが見えてるっていうのは確定してます、認識してます、前後式がね。
但是那里没有意义的轮廓。
だけどそこに意味の輪郭がないんです。
也就是说我们凭直觉就能知道,现在我的眼前有一个橙色的塑料瓶,这个塑料瓶放在桌子上,桌子与塑料瓶,以及塑料瓶的橙色部分、透明部分和土黄色部分,都是具有意义轮廓的。
つまり僕たちはもう直感的に 今僕の目の前にね、オレンジ色のペットボトルがあるんですけど、このペットボトルが机の上に載っていて、机とペットボトル、そしてペットボトルのオレンジのとこと透明なとこと、黄土色のところっていうのは、意味の輪郭を持って。
我是能够区分的。
僕は区別してるんですね。
然而,在原始期前五识的视觉阶段,这其实是平面的。
ところが、その原始期前後式の見るっていう色覚の段階だと、これ、平面なんですよ。
也就是说,它并没有区分桌子和塑料瓶。
つまり、その机とペットボトルの区別はしてない。
明白了。
わかりました。
啪地一下,就是能看到这种画面的阶段。
パッてそういう絵が見えてるっていう段階。
大概,婴儿就是这样的吧。
多分、赤ちゃんがそうなんですね。
婴儿既没有距离感,也没有那种做了某件事就会怎样的概念,但是能看到也能听到,所以完全搞不懂。
赤ん坊って遠近感とかもわかんないし、あの、何をどうしたらどうなるっていう概念を持ってないから、でも見えてるし、聞こえてるんで、わけわからへんから。
因为搞不懂所以就哭了,对吧。
わけわからへんって泣いてるわけですよね。
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婴儿呢。
赤ちゃんね。
在AI出现之前的电脑图像可能就是那样的。
AIが出てくる前のパソコンの画像とかがそうかもしれないですね。
啊,确实如此。
ああ、そうなんです。
就算说'把背景和物体中的塑料瓶单独消除',在AI出现前也是做不到的——原来如此。
背景と対象物が ペットボトルだけ消してって言っても、AI 出てくる前って消せなかったなるほどね。
最近AI才开始理解'塑料瓶不存在'这个概念,但之前对AI来说那只是像素集合。比如JPEG格式图片里突然出现的这个,其实只是一堆色点对吧?
最近それが意味を持ってペットボトルがないっていう AI が認識するようになったけど、その前はただのピクセルの集まりだから、そうですね、JPEG の画像でバーンって出てて、これ、そのただの点ですよね。
只是一堆橙色色块对吧?
ただのオレンジですよね。
类似这种感觉。
みたいな。
对对,我觉得用这种比喻就很贴切。
そうそう、その感覚でいいような気がします。
是的。
はい。
而且,听觉也是一样,触觉也是一样,虽然有这样的感觉,但无法赋予其意义轮廓的就是前意识。
で、聴覚にしても一緒、触覚にしても一緒、その感覚はしてるんだけど、そこに意味の輪郭が持ててないっていうのが前後式です。
那么,这个前意识位于什么之前呢?因为它位于第二阶段意识的前面,所以称为前意识。
で、この前後式が何の前にあるかというと、2段階目にある意識っていうものの手前にあるから、前後式っていう。
而意识呢,是从这个前意识输入进来的,比如视觉上看到这样的东西,然后正是使用语言和概念赋予意义轮廓并加以确定的,这就是意识的作用。
で、意識 っていうのはこの前後式から入力されてきた、例えば視覚だったらこのようなものが見えてますっていうことに対して、まさに言語と概念を使って意味の輪郭を付与して確定させてるのが意識の作用なんですね。
也就是说,这正是人工智能。
つまり、まさに AI ですね。
它从这里开始理解物体的含义不同,并且这是名为塑料瓶的东西,功能上具有这样的功能,那个。
これはここからもうオブジェクトの意味が違うっていうのを 理解して、さらにこれはペットボトルという名前のものであって、機能としてはこういう機能があってって、その。
在语言和概念这个层面上,意识正在确定那个世界。
言葉と概念っていうところで、その世界を確定させてるっていうのが意識です。
所以失去意识的话,即使眼睛看得见也什么都做不了呢。
だから意識を失うと目が見えてても何もできないわけですね。
无法发挥功能。
機能できないんでっていう。
我以前也有过一次撞到头昏过去的经历。
僕も一回昔頭打って気絶したことあるんですけど。
那个,恢复意识的瞬间——虽然不是刚才Yanya先生说的手术话题——轻飘飘醒来的瞬间,完全搞不清楚状况,是个很有趣的经历。
あの、復活した瞬間、さっきのやんやさんの手術の話じゃないですけど、ふわって目覚めた瞬間、わけわかんないですよねっていう面白い経験がある。
还没有被赋予意义。
まだ意味が付与されてない。
虽然能看到,但不知道是什么。
そう見えてるんだけど、何。
才想起来。
もう思い出すん。
大概过了一秒左右,才意识到。
って1秒ぐらいして、あれ。
我刚刚晕过去了。
俺気絶してた。
就是这种感觉,但眼睛看到的那一瞬间完全无法理解对吧。
みたいな感じになるんだけど、って、この目が見えた瞬間ってわけわかんないですよね。
完全不明白呢。
わかんなかったっすね。
当时毫无意义呢。
意味がなかったですもんね。
那个时候。
あの時は。
确实是这样。
そうなんです。
我觉得前后式和意识之间存在差异,这也是一个证据吧。
その前後式と意識の間にはやっぱり違いがあるっていうのも一つの証拠なんだろうなっていう気がするんですね。
说到这个意识,意识,意识,其实就是consciousness对吧。
で、この意識で、意識、意識って言いますけど、コンシャスネスですよね。
如果这就是全部的话,事情就简单了。
これがすべてだっていう話だったら、話は早いんですよ。
也就是说。
つまり。
因为用语言和概念来操作的是意识,所以如果被告知最好别这么做,那只要表示‘确实如此’并接受就完事了,但现实并非如此简单,对吧。
だって、言語と 概念で操作するのが意識だから、それはやめた方がいいですよって言われたら、そうですねって納得して終わりっつったらそれでいいんだけど、そうもいかないじゃないですか。
虽然不是植木等那种情况,但确实存在‘明知故犯’的世界,而要探究这究竟是怎么回事,从这就开始进入困难的部分了,我们需要思考潜意识领域。
植木等さんじゃないけど、わかっちゃいるけどやめられないっていう世界はあるわけで、それ何なのかっていうので、ここからがもう難しいとこですけど、潜在意識の領域を考えるんですね。
存在三阶段前后式意识,第三阶段有一个叫做‘玛那’的认知力层次,这就是玛那式。
3段階目前後式意識があって、3段階目にマナ という認識力の層があると、マナ式ですね。
这个呢,准确来说,比起语言或概念这类意识所处理的方式——虽然表达起来有点困难——更像是身体性的,或者说,是全人格层面的。
これはですね、精密に言うと、言語とか概念とかっていう意識が扱うような扱い方をしないより、これちょっと表現難しいですけど、身体的なというか、その、全人格的なというか。
就是说,不是语言层面的,而正是那种‘虽然心里明白但……’的,那个‘但’字后面的东西。
その、言葉じゃなくて、まさにそのわかっちゃいるけどっていう、そのケドの先にあるやつですね。
就是那种‘虽然知道不该做,但身体还是不由自主去做了’的情况,您知道吧?
その、いや、それやめた方がいいのは知ってんねんけど、なんかもう身体的にやってまうねんっていう話があるじゃないですか。
就是那种不由自主就做了的情况。
その、なんかやってしまう。
那种执着也好,习惯也罢,真的是无意识地就那样做了,比如深夜忍不住吃薯片啊,或者眼睛不由自主追着漂亮姐姐看啊,诸如此类的。
そのなんか、執着であったりとか、癖であったりとか、その、ほんと無意識にそうなってしまう、深夜にポテチを食ってしまうとかですねなんか、あの綺麗なお姉さんを目で追ってしまうとかねなんかそういう。
这种真正身体上的,真的完全无意识却无论如何都会去做的这种作用,就是被称为'玛那'的东西,这真的
こうな、本当に身体的ななんか、もうほんと、無意識にどうしてもそうしてしまうっていうようなところの作用っていうのが、このマナと呼ばれるもので、これがもう本当に
用平常的话来说,就是真正的无意识自我。
普通に使う言葉 で言うと、ほんと無意識のエゴですよね。
这是人的人格本质,而且这个'玛那式'不是语言层面的,所以从出生以来——佛教里甚至会考虑到前世——它就是个体本身了。
その人の人格的本質であり、で、このマナ式っていうのは言葉ではないので、その生まれてこの方、仏教の場合には前世からとかも考えるんですけど、その個体ですよね。
这种认知能力从确立的瞬间开始,个体所经历的信息积累就构成了玛那呢。
その認識力っていうものが確定した瞬間からずっとその個体が体験してきたことの情報の積み重ねっていうのがマナを作ってるんですよね。
所以,假设有人在婴儿时期被狗吓得很惨,虽然婴儿时期已经不记得这件事了,但就是莫名很怕狗。
なので、赤ちゃんの頃に犬にむちゃくちゃ怖い思いをさせられた人がいたとして、赤ちゃんなんでその事実はもう覚えてないんだけど、でもなんかめっちゃ犬怖い。
这样的人不是有很多吗?
みたいな人っていらっしゃるじゃないですか。
这也正是玛那式的体现呢。
そこもまさにマナ式なんですよね。
原来如此,对那样的人。
なるほど、そういう人に。
不,这只狗不可怕哦。
いや、この犬怖くないですよ。
它不咬人的,绝对不会。
噛まないですよ、絶対。
就算你这么说,嗯,也许是这样没错,但总之就是觉得害怕不是吗?
って言っても、いや、そらそうかもしれへんけど、とにかく怖いねんっていう判断になるじゃないですか。
有时候会有这样的人对吧。
時々いるでしょ。
我面试的一个人里也有个害怕蝴蝶的孩子呢。
僕のオーディションの中の一人もチョウチョが怖いっていう子がいたりしてね。
虽然我们不明白蝴蝶有什么可怕的,但她本人就是觉得害怕。
チョウチョの何が怖いのか僕らにはわからないんですけど、本人はなんか怖い。
而且从道理上是能理解的。
で、理屈ではわかるんですよ。
如果和那只蝴蝶对战人类绝对会赢,我也很清楚蝴蝶对人类根本没有攻击力,但就是怕得要命,看到蝴蝶飞过就会尖叫。
そのチョウチョと戦ったら絶対人間が勝つんで、チョウが人間に対して攻撃力なんかないんのはよくわかってるんだけど、でもやっぱりめっちゃ怖いんで、チョウチョが飛んでると悲鳴を上げ。
然后四处逃窜。
て逃げ惑うっていう。
我们根本无法理解不是吗?
わかんないじゃないですか、僕らには。
也就是说,她和我们的知识体系不同,对世界的认知方式也不同。
つまり、学識が違うんですよ、彼女とね、世界認識のあり方が違う。
而且这不是语言能解释的。
しかもそれは言語じゃないっていうこと。
不喜欢的食物也会这样吗?
苦手な食べ物とかはそうなるんですか。
我觉得应该是这样,虽然说不清原因,就是莫名讨厌这个东西。
そうだと思いますなんか わからへんけど、これ嫌いやねんみたいな。
喜欢的东西其实也都是同样的道理。
好きだもんとかも全部そうなんだよ。
归根结底是经验。
要は経験。
身体上、经验中积累的那些好感、情感之类的东西,我认为全部都是玛纳式的,确实如此。
身体的、経験的に蓄積されたその好感、情みたいなのは、全部マナ式にそうですね、あると思う。
当有识之士思考这个问题时:如果不是意识——意识可以否定它,但明明用意识否定了却还是做了——这些信息储存在哪里呢?除了意识之外
意識じゃないと、意識では否定できるが、意識で否定してるのにやってしまってるっていう情報はどこに格納されてるのかっていうのを有識の人たちが考えた時に、まな板意識以外に。
应该还有别的吧,于是就说命名为玛纳吧,就这样成了玛纳,那个,那个例子也是这样的吗?
あるだろうってなって、それはまな板って名付けようって言って、まな板になったっていう、あの、あれとかもそうですか。
因为人类生活在3D空间中,所以会把画得小的东西认为是远处的,画得大的东西认为是近处的,我觉得这也属于那种情况。
あの人間、3D 空間で生きてるから、ちっちゃく書かれたものを遠くだと思い、デカく書かれたものを近くに書かれていると思う、みたいなのもそっちにだと思います。
大概不是逻辑层面的问题吧。
多分理屈じゃないですもんね。
这更多是身体层面的固有认知,就像错觉游戏一样。
割と身体的な思い込みだから、錯覚みたいな遊びがあります。
正是如此。
まさに。
确实,作词之类的也全都是这样呢,没错。
まさに作詞とかも全部そうですよね、そうですね。
是的,就是先入为主的观念。
はい、思い込み。
那个,当你踏上停着的自动扶梯时,会不由自主地‘唔’地一下对吧。
あの止まってるエスカレーターに乗ったらウッってなるじゃないですか。
那种情况大概也是无意识中的‘マナー式’在自动调节。
あれとかも多分マナー式が無意識に調整してる。
因为大脑已经预设了这里应该有加速度,所以虽然意识知道是静止的,但身体已经做好了移动的准备,因此站在静止的扶梯上会差点摔倒——我认为这都属于玛那式的范畴。
ここで加速度がかかるはずなんで、っていうのを思い込んでるんで、止まってるって意識はわかってるんだけど、体の方がもう動いてる前提になってるから、止まってるエスカレーターに乗ったらこけそうになるっていうのは全部マナーだと思い。
好的,明白了。
ますはい、了解です。
明白了。
了解です。
更进一步说,在这种玛那式之下,还存在第四阶段的阿赖耶识。
さらに、そのマナーの下に 4 段階目のアーラヤというものがあるわけですね。
这个阿赖耶识,如果用现代的说法强行解释的话,就是数据存储空间。
このアーラヤっていうのは、今風の言い方を無理やりすると、あの、もうデータストレージなんですよ。
这个人所感知的信息,全部储存在这个阿赖耶识的领域里,然后末那识会从中自行选择。
その人が感受した情報っていうのが、全部そのアーラヤっていう領域に溜まっていて、で、マナ式はこの中から、その、自分が勝手に選ぶんですよね。
比如想要这个信息,或者执着于这个。
この情報が欲しいとか、これに執着するっていうのを。
末那识。
マナ式。
玛纳式本身其实并不持有信息,持有信息的是阿赖耶识,但玛纳会极其选择性地试图获取阿赖耶识的信息呢。
マナ式自体が情報を実は持ってるわけではなくて、情報を持ってるのはアーラヤなんだけど、マナがそのアーラヤの情報をめちゃくちゃ選択的に取ろうとするんですよね。
所以是英语啊。
だから英語なんだ。
没错。
そう。
玛纳就是这样,会把这个给获取掉哦。
マナはそう、これを取ってしまうんですよ。
无论如何都会去获取它。
どうしてもそれを取ってしまう。
而在阿赖耶的状态下,其实并没有好坏之分。
で、アーラヤの状態だと、別にそのいいも悪いもないんですよね。
只是信息不断涌入,不断积累。
ただもうひたすら情報っていうのが入り込んできて、もうひたすら溜まっていく。
其中末那识会这样——某种意义上说是主动地进行选择,再往下第五层,我觉得这是密教特有的,有一个叫阿摩罗的认识力,这已经完全超越了个体。
その中をマナ式がこう、ある意味、主体的にピックするっていうことになっていて、さらにその下、5 段階目に、これ密教独特だと思うんですけど、アマラという認識力があって、これはもう完全に個体を超えて。
这样的呢。
るんですよね。
那个,整个世界的一切事物。
あの、この世界全体、あらゆるものを。
不仅是一切众生,所有存在本身的信息都是从这阿摩罗中显现出来的。
一切生きとし生けるものだけじゃなくて、一切存在そのものの情報っていうものが、このアマラから立ち上がってきている。
所以,在阿赖耶和阿摩罗的连接区域附近,存在着连接其他人认知的区域呢。
なので、アーラヤとアマラの接続領域ぐらいに、その他の人たちの認識っていうのが繋がった領域があるんですね。
荣格所说的集体无意识这类东西,在阿赖耶识的深处、阿玛拉与阿赖耶识之间的区域,这种数据存储空间会不断扩展。
集合的無意識ってユングが呼んでいるようなものっていうのが、このアーラヤの深いところ、アマラとアーラヤの間ぐらいに 超えた、そのデータストレージっていうのが広がっていって。
而且,这真的是所有众生都相互连接的,甚至可能连石头的记忆或无机物的记忆这类东西也都连接在一起,这就是这种观点。
で、これはもう本当に生きとし生けるもの全部がつながってるし、ひょっとすると石ころの記憶とか無機物の記憶みたいなものも繋がってるかもしれないっていう考え方ですね。
之所以分为五个阶段,是密教中唯识思想的理解,那么密教为何要设定第五个阶段呢?
の5段階になってるっていうのが、密教的なその唯識の考え方なので、密教は何故 5 段階目を想定されたんですか。
一切皆为空。
一切がその空である。
然后,空这个概念在大日如来那里被理论化,所以它超越了个体,表达了所有存在相互关联的根源,或者说是一种既是根源又是无限的存在。
で、空っていうのが大日っていう、大日如来っていうところで論理化をしているので、その個を超えて、存在全てが紐づいている根源の、なんか、その根源かつ無限っていうところを表現したいんですよね。
如果存在阿赖耶识的话,刚才提到的中间法则就会生效,当阿赖耶识存在于此时,那么其他事物不就变得必要了吗?
アーラヤがあるっていうことになると、これまたさっきの中間の法則が発動して、アーラヤがここにこうあるってなった時に、じゃあそれ以外のものが必要になるわけじゃないですか。
是啊,真的有那种东西吗?
そうですね、そんなものってあるの。
当这样想的时候,逻辑就有点说不通了。
ってなった時に、ちょっと論理が通らなくなる。
从这个意义上来说,唯识在逻辑上确实有些不够严谨。
そういう意味で、唯識っていうのはちょっと論理的には甘いところがあるんですね。
也就是说,因为它是以我们实际的心理活动为对象的,所以很难像中观那样进行清晰的逻辑化。
つまり、実際の僕たちの心の働きっていうことを対象にしてるから、中間みたいに綺麗に論理化することがちょっと難しいんですよ。
这样就不得不采取实在论了,因为是从‘我的认识存在’这一点开始的,所以有点笛卡尔式的味道。
実在論を取ることになってしまうんでね、私の認識はあるっていうところから始まりますから、ちょっとデカルト的なんですよね。
从这个意义上说,为了巧妙地与中观搭建桥梁,他们使用阿摩罗这个概念,试图表达一切都是从终极空性中通过相互关系显现出来的,因此设定了第五个层次——不过这完全是我的想象。
そういう意味では、それをうまく中間とブリッジするために、そのアマラっていうものを使って、その究極の空 っていうところから、すべてのものが関係性によって立ち上がってくるっていう表現をしたいっていうところで5段階目をつけてるっていうことだと思いますなんか完全なる想像。
然后,随便说的话,在试图解释那个人的行为原理时,果然还是觉得不够吧。
で、適当なこと言うと、その人の行動原理を説明しようとした時にやっぱり足りないなってなったんだろうなとは思う。
变成了仅凭这个无法解释的、具有某种强度的社会。
これだけで説明できない強度あるな社会みたいになって。
如果没有这种集体意识之类的东西,群体就会变得歇斯底里,但这到底是什么呢?
なんかこういうなんか集合意識みたいなのないと、こう、集団でヒステリックになったけどこれ何。
就像这样无法解释,果然还是觉得,在相互干涉的同时,存在着某种大家共享的存储空间吧。
みたいな説明できないじゃないですかなんかで、こう、やっぱり相互干渉しながら、その、なんか、全員で共有してるストレージ、やっぱりあるなぁみたいな、っていうのは、なんか感じますけど。
比如说,SNS空间里不也有这种东西吗?
なんかあるじゃないですか、SNS 空間とかにも。
确实存在一种大家共同感知的氛围存储,日本人就特别擅长运用这个不是吗?
全員で共有している空気感的なストレージってやっぱあるし、日本人とかめっちゃそこ使ってるじゃないですか。
这正是LMM式的观点呢。
まさに LMM 的ですよね。
是的,没错。
うん、そうですよね。
听起来很像大规模语言模型呢。
大規模言語モデルっぽいですよね。
阿赖耶识是与生俱来的吗?或者说它是从哪个阶段开始具备的呢?
アマラは生まれつきなんか生まれつきって言っていいのか、などの段階から備わってるものなんですか。
阿赖耶识的说法,确实可以用无始无终来形容。
アマラ式っていうのは、もう本当に無始無終っていう言い方をしますね。
既没有开始也没有结束,也就是说没有对立概念,这就是阿赖耶识。
始まっても終わってもいない、その、つまり対比概念がないっていうのがアマラ ですね。
那么,阿赖耶(アーラヤ)这个概念,是从阿马拉(アマラ)中莫名产生的,在这种阿赖耶式的海洋中,会浮现出玛纳式(マナ式)这种个体化的存在——这就是这套理论的观点。
で、アーラヤっていうのが、そのアマラからなぜか発生してきていて、で、そのアーラヤ式の海の中から、そのマナ式っていう個別のものが立ち上がってくるっていう考え方ですね。
比如说,小鹿一出生就能奔跑,这种奔跑的程序是存在于阿赖耶中,还是阿马拉中呢?
例えば、子鹿が生まれたら、いきなり走れるっていうのは、あれは走れるというプログラミングはアーラヤにあるのか、アーマーアマラにあるのか。
不,应该说是从阿马拉中存在于阿马拉里——阿马拉包含了一切。
いや、アマラ からアマラにあるっていうか、アマラには全てがあるんですよ。
从阿马拉之中。
アマラの中から。
在因果关系的层面上,鹿出生几分钟后就能奔跑的这种状态就显现出来了。
その因果関係っていうところで、鹿は生まれてもう数分で走れるっていう、その状態っていうのが立ち現れてきてる。
这就是阿马拉了。
それはアマラですね。
本能。
本能。
这该怎么解释呢,本能?
どうなんですかね、本能。
所谓科学上所说的基因信息之类的,我觉得应该是玛那或者新谷。
いわゆるその、科学で言うと ところの遺伝子情報みたいなのって、でもマナか新谷だと思う。
是新谷吗?
新谷か。
因为是出生瞬间,所以不是玛那吗?
生まれた瞬間だからマナじゃないのか。
是新谷的意思吗?
新谷ということか。
就像基因信息被解析后可以用基因来解释一样,在未被解析时,那些信息肯定储存在某个地方才对,否则就说不通了。
遺伝子情報みたいなのが解明されたから遺伝子で説明できるけど、解明されてない時にそのストレージどこにある情報どっかにはないとおかしいだろう。
我推测大概就是这样的思考方式吧。
みたいな思考法なんじゃないかなと 予測しますけどね。
我认为确实如此。
その通りだと思います。
这个嘛,我也没有确凿的证据,但据我所知,按照唯识学的原则,未被认识到的东西其实暂时是意义消失的状态,只是暂时而已。然后通过冥想。
これ、僕もちょっと確実な裏は取ってないですけど、ざっと僕が知ってる限りだと、その潜在意識の発見って、結局その唯識の原則に従うとですね、認識されてないものっていうのは、一旦意味消滅してるわけですよ、一旦ね。で、ところが 瞑想する。
对吧。
でしょ。
意识不是会消失吗。
意識消えるじゃないですか。
但停止冥想后,某种连续性意识又会回来。
なのに瞑想やめるとなんか連続性がある意識が帰ってくるんですよね。
那么这段时间意识去了哪里。
じゃあその間、意識どこにあった。
这就是问题的关键。
っていう話になるんですよ。
也就是说,意识是从另一个地方被认识的,还存在另一种感知力。
ということは、意識を別のところから認識している、また別の知覚力があることになるじゃないですか。
这就是所谓的玛娜模式。
それでマナ式ですよね。
换句话说,正因为潜意识持续认识着我们的表意识,它才得以存在。
つまり、潜在意識っていうものが、自分の顕在意識を認識し続けているから、健在。
比如说,在睡觉的时候。
例えば、眠ってる時とかね。
即使在显意识消失的时候,我的显意识的连续性也依然保持着。
健在意識が飛んでる時でも、その僕の健在意識の連続性っていうのは保たれている。
所以,当它重新恢复时,比如醒来时、从冥想中起身时,就会作为继承原有自我的存在而显现出来。
なので、その復活してきた時、例えば目覚めた時、瞑想から立った時に、元の自分を継承するものとして立ち現れてくるわけじゃないですか。
那个继承的信息是谁在说'胡萝卜'之类的,让礼仪显现出来。
その継承してた情報は誰がニンジンそうそうっていうので マナーが出てきてる。
如果礼仪只有这种意识的话,那么在意识停止期间它就不存在了,这就等同于又死了一次。
マナーがそう意識しかないんだったら、意識が停止してる間はそれってもうないっていうことになるわけだから、もう一回死んだのと同じなんですよ。
对吧,无法继承。
そうそう継承できないでしょ。
很奇怪对吧。
おかしいでしょ。
就会变成这样。
ってなる。
那么,在那种情况下,意识也会完全消失,对吧?
で、じゃあそのマナ式レベルでも吹っ飛んでることってあるわけじゃないですか。
就像被球棒狠狠击中头部那样。
思いっきりバットフルスイングされてね、頭に食らってそうですね。
当时真的是在生死边缘徘徊。
生死の境をさまよってました。
虽然也有人真的会失忆,但有时也会带着记忆恢复,在佛教中,当进入极深的冥想状态时,
って言ってもあそこで本当に記憶喪失になる人もいるけど、記憶をもって復活することもあるし、その、仏教の場合には、めちゃくちゃ深い瞑想に至った時に、その。
有一种说法是玛那的作用也会停止,那么玛那的作用都停止了,却还是能从冥想中恢复过来成为原来的人,这种情况不是也有吗?
マナの作用も停止するっていう話があるので、じゃあマナの作用が停止してるのに、やっぱり瞑想から立ち上がってきて元の人っていうことあるじゃないですか。
这样的话,就应该存在某种机制,在这个孩子停止时,还能从某个地方认知到这个孩子,超越了孩子自身的层面。
そしたら、その子のレベルを超えて、子が停止した時もその子をどっかから認識してる式っていうのがあるはずだよね。
这样一来,即使那个人经历了100次意识停止——甚至是真的心脏停止——只要身体机能能够恢复,意识能够回归,那就说明是从别处被持续认知着的,也就是他人的意识。
ってなって、その人が 100 意識停止もほんと心停止していたとしても、なるほど復活するっていう、身体的に機能がいけるのであれば、指揮が戻ってくるっていうのは別のところから認識され続けているからだということは他社の意識。
也就是说,是其他意识在认知着自己对吧?所以才会这样推论出来。
っていうのが自分を認識してるっていうことになるよねっていうことになるんで、荒らるんですね。
如果非常粗略地比喻的话,我觉得就像是内存、本地存储和云端吧。
むちゃくちゃ荒く例えてみると、メモリとローカルストレージとクラウドかなと思う。
没错没错,非常接近非常接近。
まさにまさに近い近い。
内存的话,嗯,一旦关机或者休眠后再次重启,就会重置对吧。
メモリは、えっと、一回シャットダウンしたり、スリープした後にもう1回再起動したら1回絡んだ なりますよね。
但是本地存储即使断电一年也会一直保留,所以那就像是阿赖耶识的本地存储玛娜吧。
でも、ローカルストレージは電源切って1年経ってもずっと残ってるから、それがアーラヤでローカルストレージマナかな。
用玛那的话,云端就算电脑坏了也能从某个地方重新下载一次。
マナでクラウドはパソコンぶっ壊れても一応もう一回どっかからダウンロードできる。
是阿赖耶识吧,阿赖耶识。
アラヤですね、アラヤ。
是iCloud呢。
アイクラウドですね。
类似iCloud的那种,那个,比如说,有数据中心的那个地方,地球,从这个意义上来说,就像是阿摩罗识那样的意象吧。
アイクラウド的な、それ、その、例えば、その、データセンターとかがある、その場、地球っていうのが、そういう意味では、例えばアマラ式みたいなイメージですよね。
可以说是基础性的东西,不会消失的东西。
根底にあるものっていうか、消えないもの。
这已经超越了消失或不消失的范畴。
消えるとか消えないを超えてるんですね。
那和卢舍那物是同一回事吗?
それはルシャナ物と同一なんですか。
那么,阿马拉式就是毗卢遮那了。
じゃあ、アマラ式ってビルシャナですね。
指的是毗卢遮那佛。
ビルシャナのことなんです。
也就是大日如来对吧。
大日如来っていうことですね。
这个,刚才话题突然跳到了密教部分,是的,乔布斯,乔布斯,还有比尔·盖茨什么的。
これ、ちょっと今、話がね、密教のところでパッと今飛びましたけど、はいはい、ジョブズ、ジョブズ、それ、ビルゲイツ、何。
毗卢遮那。
ビルシャナ。
那个怎么说呢,就是已经无法再进一步区分认知,持续追溯下去的结果,不是可以把某些概念组合起来吗?
そのなんていうか、もうこれ以上認識を分けることができない、そのたどり続けていった結果、何かと何かの概念をくっつけていけるじゃないですか。
比如说,这个塑料瓶,如果再用一个抽象层次来概括它,随便什么都可以,比如可以归类为饮料之类的,对吧?
例えばですけど、このペットボトルっていうのを、もう一つ一つ段階抽象的に括ると、なんでもいいけど、なんかこう、飲み物としてくくれますよね。
这样一来,那里的可乐也是,用杯子装的茶之类的也全部都可以归类为饮料。
そうすると、そのそこにあるコーラもそうだし、コップで入れたお茶とかも全部飲み物としてくくることができる。
就像这样,概念不是可以组合起来的吗?
こんな感じで、概念ってくっつけれるじゃないですか。
可以打标签呢。
タグ付けできるね。
与其说是打标签,不如说可以整合到更高一层的文件夹里,对,可以放进文件夹里对吧。
タグ付けというか、統合できるじゃないですか、一段階上のレイヤーにフォルダか、はい、フォルダに入れれるじゃないですか。
当我们从逻辑上思考持续放入这个文件夹的行为时,
このフォルダに入れ続けるっていうのを論理的に考えた時に、
一直放下去会怎么样呢?
ずっと入れ続けたらどうなる。
确实存在这样的思维实验,最终应该会归结为一个东西,对吧。
っていう思考実験がやっぱりあって、最後一つになるはずじゃんそうですね。
但我们不知道那是什么,因为不知道,所以就把它命名为‘比尔沙纳布茨’。
でもそれが何かわかんないじゃんわかんねーから、これ、ビルシャナブツと名付けた。
是的,给它起了名字。
そう、名前にした。
因为从概念上来说是这样的。
概念として そうなので。
所以,在大城先生的情况下,他绝对不想使用‘唯一’这种说法。
で、これがまた、大城の場合には、その唯一っていう言い方を絶対したくないんですね。
也就是说,一旦说了‘唯一’,‘非唯一’的概念就会产生意义,因此他认为不存在所谓的‘唯一’,但是,如果继续这样做的话。
つまり、唯一って言った瞬間、唯一じゃないものっていうのが意味発生してしまうので、なので、その唯一っていうのはありないって考えるんで、ただ、でも、これをやっていくと。
就不得不面对真正的‘无限’这个概念了,对吧?
本当に無限っていうことと向き合わないといけないわけですね。
没错,因为无限是没有尽头的,所以他们暂且用‘大日摩诃毗卢遮那’这种说法来指代无限,并就此打住。
そうですよね、無限って ててもキリがないので、一旦その無限のことを大日マカビルシャナっていう言い方しましょうって言って止めてるんです。
这样就不用再想了,反而是在这么做。
これ以上考えなくていいと、むしろしてる。
其实是无限嵌套的。
本当は無限入れ子なんですよ。
所以,即使是那个式子,在阿马拉式子下面还有第10个式子。
だから、その式にしても、アマラ式の下にまた 10 番目の式がある。
那么,支撑那个第10个式子的还有第11个,这样下去就会无限延伸了,对吧。
じゃあ、その 10 番目の式を支えている 11 番目があるって言って、これやったら無限に行くわけですよね。
所以那就是,所以那个对吧,和无量对数是一样的呢。
だからそれは、だからあれですよね、無料対数と一緒ですね。
是的,一旦变成真正的无限,就成了无限集合。
そう、本当に無限っていうことになっちゃ、無限集合になる。
而且,说了也没意义,所以暂且就用这个来代表后续的部分吧。
で、まぁ言っても意味ないんで、一旦もここから先はこれで代表させよう。
干脆就叫大数吧,说'这之后的位数'的就是那个毗卢遮那,而将其具象化的就是奈良大佛,之前是这么说的对吧。
大数って呼んじゃおう、これ以降の桁は、って言ってるのがそのビルシャナで、それが、それを具現化したのがあの奈良の大仏だって話をしてましたよね。
对对对,确实是这样。
そうそうあったあった。
这是指超越光的光,阿马拉式也是这个意思。
それはその光を超えた光っていう意味で、アマラ式もそれのことなんです。
得先说清楚才行。
はいって言っとかないと。
那才是真正的根基。
ほんとそれの基盤は。
那么你意识到这一点了吗?
じゃあそれを認識してるの。
更进一步意识到这一点的是?
さらにそれを認識してるのは。
这样下去就会无限循环对吧?
って言って、これ無限に行くわけですよね。
我突然想起之前千叶老师说的,基督教里把终极的一点定义为神之类的。
もうなんか、これ、前、千葉先生の話思い出してて、なんか、キリスト教では、究極の一点っていうのを、もう神として定義したんだよ、みたいな。
将其解释为神是非常基督教或伊斯兰教的行为,但在我看来明显不同的是,它具有意识并有计划这一点,果然还是一神教的思维方式。
それを神として説明するのは非常にキリスト教とかイスラム教の挙動だと思うんだけど、僕から見て明確に違うなと思うのは、それが意識を持ってプランを持っているっていうのが、やっぱりその一神教的考え方。
就是说它有意志对吧。
意志があるってことだよね。
是的,要有意志就必须有轮廓,所以在中间阶段果然还是会出错,会发病对吧。
そうですね、意志があるためには輪郭がないといけないんで、中間的にはやっぱエラーになりますよね、起病するよねっていう話。
医生就是这样的对吧。
医師がそうですよね。
明明无法分割却存在意志,这到底是什么意思呢?
分けられないはずなのに意志があるってどういうことかっていう話になる。
就是说存在认知能力,对吧?
認知があるってことでしょって話になるってことですよね。
但是,佛教的毗卢遮那佛,就像刚才提到的阿摩罗识那种,被解释为类似存储器的存在,所以那并不是所谓的意志吧。
けど、仏教のビルシ、そのさっき言ったアマラ式みたいなやつは、そのなんていうか、ストレージみたいな説明されてるから、その、いわゆる意志じゃないじゃないですか。
在我这里,这明确不同于人格神之类的概念,是完全不同的。
ここは僕の中で明確に違う人格神とかではないで、全く違いますね。
是的,只是作为一个概念统称而已。
そう、概念としてまとめて呼んでるだけ。
到目前为止我们一次都没提到神的话题呢。
今んとこ神様の話一回もしてないですからね。
所以从这个意义上说,佛教原本就完全不是宗教呢。
だから仏教って、そういう意味で宗教では全然ないですね、本来的にはね。
啊,确实是这样呢,不过确实。
ああ、そうですよね、でも確かに。
但是,像佛像那样以某种可见的物体形式显现出来时,就难免会被人类视为神性存在——不过民间宗教通常就是这样自然形成的吧。
でも、仏像とかみたいに目に見える何かオブジェクトとして表出してしまうと、神的な存在っていう風に、どうしても人間に、まぁでも民間宗教って普通にくっついてそうなったんでしょうね。
是的,毕竟存在那种认知层次的问题。
そうですね、やっぱりそのレベルがありますからね。
比如古代那些不识字的人。
その昔の文字も読めない人とか。
对于没有接受过逻辑思维训练的人,说了也是白说。
論理的な思考訓練ができてない人にはもう言ってもしょうがないんで。
所以才会由这种形象的人来教导我们。
なので、こういう姿をした人が教えてくれたんや。
暂时、暂时先放着吧。
一旦、一旦預ける。
不过真好奇娜迦族女孩朱娜会是什么心情啊。
いやマジナーガールジュナとかどんな気持ちなんだろうなと思う。
在那烂陀寺的话应该能沟通吧?
ナーランダー僧院なら話通じるのか。
我觉得能沟通。
通じると思います。
所以果然还是佛陀最不容易啊。
だからやっぱブッダが一番大変だったでしょうね。
我也这么认为。
だと思いますね。
不过佛陀那个时代本来就有很多其他思想家并存。
まぁでも、ブッダの時代も他の思想家たちがいっぱいいた時代だから。
不过,最初是我给鹿讲经的。
でも、最初に僕、鹿に説教しての。
虽然超有意思,但确实是在给鹿讲经呢。
めっちゃ面白いっすけど、鹿に説教しとったんよ。
最开始是对动物讲经的。
最初なんか動物に言ってるんですよ。
根据传说,在向人类传教前是先向鹿传教的,
一応、伝説では、人に教える前に鹿に教え、
想着它们听不懂就放弃了,但最后还是决定继续讲——这就是对鹿传教的顺序。
言ってもわかんないからやめようかな、みたいな順序があって、やっぱ言うかってなった後の次のステップ鹿だったの。
讲到那个程度时,鹿和人类的界限其实很模糊了。
めっちゃそこまでいくと鹿と人間の境あんないんだよな。
虽然一个人思想超前到对鹿讲经它们也听不懂,但对人类讲经他们同样听不懂啊。
一人だけすげー思考先進んだからとか言って鹿に言ってもわかんねえだろうけど、別に人間に言ってもわかんねえからな。
总之觉得'先对鹿讲经吧'这个想法还挺有趣的。
とりあえず鹿に言うか言ってたのかなと思ってちょっとおもろかった。
虽然是很了不起的佛像,但刚才提到的那个佛像,它的名字啊设计啊,基本上每个佛像都有固定的设计样式对吧。
すごいな仏像なんですけど、今話したその仏像ってなんか名前になんか、だいたいなんかデザインって、この仏さんはこのデザインみたいな、決まってるじゃないですか。
那个,说它是固定的,总感觉像是被固定住了,似乎有点矛盾呢,不过我觉得这是个非常好的问题。
あれ、決まってるっていうのは、なんか固定されているような感じがして、なんか矛盾してるような気がするんですけども、いや、素晴らしい問いだと思います。
这正是与我们当下讨论的唯识思想相连接的地方呢。
まさにこの今話題にしてる唯識 とリンクするところなんですよね。
也就是说,虽然我们需要稍微推进一下讨论,但先暂时回到原点,佛教的目的就是从苦难中解脱对吧。
つまり、ちょっとこれ議論を先に進めないといけないんですけど、で、ちょっと一旦立ち戻って、その仏教の目的は苦からの 脱却ですよね。
然后。
と。
而在唯识的修行方法中,为了摆脱痛苦必须改变自己的认知,为了掌握这种认知控制的方法技巧,就必须了解什么是自己的认知能力。
で区か、唯識の作法だと、苦から脱却するために自分の認識を変えなきゃいけないわけであって、その認識のコントロールの手法力を身につけるために、自分の認識力とは何かっていうのを知らなきゃいけなくて。
于是试图了解的结果,从刚才提到的密教立场来看,就是感知到了存在5个阶段9种认知能力这样的说法,目前就到这里对吧。
そこで知ろうと思った結果、今申し上げたような密教の立場だと、5段階 9 種類の認識力っていうのがあるということが、あの、知覚されましたと、今そこまでですよね。
那么在此基础上,本体又是什么?应该触及的地方在哪里?
で、その上で、じゃあ本体は何か触るべきところはどこか。
当考虑到这一点时,通过旧识别的区分,阿摩罗和阿赖耶是无法被我们直接掌握的。
って考えた時に、その旧識別区識別で、アマラとアーラヤって自分の手には得ないんですよね。
阿摩罗是基础,没错。
アマラっていうのは基板、そうですね。
而阿赖耶则是与他人的集体意识,即使只限定在人类范围内,也是八十亿分之一。
だし、アーラヤっていうのは、他の人との集合意識になってるんで、例えば人間に限定しても80億分の1ですよ。
如果再考虑人类以外的存在,分母就会变得极其庞大,单凭我一个人想做什么也是无法改变什么的。
人間以外のものっていうのも考えたらとてつもない分母になってしまうんで、僕一人がどうこうしようと思ってどうにかなるもんじゃないわけですよね。
虽然它是其中之一并非没有意义,但更确切地说,那是一种浅层的存在,因此从根本上支配着我的行为、我的认知的东西是
ワンオブゼムだから意味がないわけじゃないけど、どっちかっていうとその薄い、だとすると私の挙動、私の認知っていうものを根本的に司っているものっていうのは。
一种名为末那识(Manas)的机制,它具有从阿赖耶识(Alaya)这个存储库中选择提取哪些信息的方向性
アーラヤっていうストレージからどの情報を拾おうとするっていう方向性を持っているマナなんですよ。
当末那识的行为模式改变时,就能改变从超越虚空的存储库——阿赖耶·阿摩罗识(Alaya-amala)中提取哪些信息以及以何种意义提取
マナ式の挙動が変わると、そのアーラヤ・アマラっていう、その虚を越えたストレージから、どの情報をどういう意味で取ってくるっていうのを変えることができるわけですね。
而存在痛苦或沉溺于痛苦之中,意味着末那识模式只会做出导向痛苦的意义决定
で、苦があるとか、苦に沈んでるっていうのは、マナ式が苦につながるような意味決定しかし、おらへんわけです。
对此呢,必须改变这个。
に対してですね、これを変えなきゃいけない。
而且,玛那式比意识要强大得多呢。
で、マナ式の方が意識よりもはるかに強いんですよね。
因为它是身体感觉中的无意识。
その身体感覚で無意識だから。
也就是说,就算意识明白狗并不可怕,嘴上说着'不可怕',但心里明白归明白,实际上还是会害怕呢。
つまり、犬が怖いっていうのも、いや、怖くないですよっていうのは、意識はわかるんだけど、分かっちゃいるけど、やっぱり怖いんですよね。
即使被告知深夜最好不要吃薯片,但终究还是会吃呢。
深夜にポテチ食べんのやめた方がいいよって言われても、やっぱり食うんですよね。
为什么呢,因为玛那式执着于此啊。
なぜかっていうと、マナ式が執着してるからですよね。
而玛那这种东西,对意识来说是不可见的呢。
で、マナっていうのは、意識からはインビジブルなんですよね。
因为看不见。
見えないんで。
因为无法操控语言,所以无法与之互动,对吧。
だって、言語が操れないから、相手ができないわけですね。
玛那法则能够通过感觉或情感来控制意识。
マナ式は、感覚とか感情として意識をコントロールできる。
因此,与其将注意力集中在意识上,不如与玛那法则互动来进行修行更好。
なので、意識にこう、まさに意識に意識を向けるよりは、マナ式を相手にして修行をした方がいい。
所以,修行基本上是需要身体力行的,对吧。
なので、修行っていうのは基本的にフィジカルが伴うんですよね。
原来如此,这一带就是与西方思维方式略有不同的地方。
なるほど、ここら辺がその西洋の考え方っていうのとちょっと違うところ。
在我看来,西方思维方式、西方哲学似乎是以‘明白了就能做到’为前提的。
西洋の考え方、西洋哲学っていうのは、わかったらできるでしょっていうのを前提に持ってるように僕には見えるんですね。
所以像笛卡尔、尼采、康德,还有黑格尔这些人就会用逻辑来解释,说这样那样就无法反驳了吧,所以世界就是这样的,对吧。
だから、そのデカルトとか、ニーチェとか、カントとかですね、ヘーゲルとかが、いや、論理で説明してこうこうで反論できひんやかって、だから、世界はこうでしょ、はい。
然后大家就会说‘好的’表示认同。
オッケーってなるんだけど。
从佛教的角度来看,这完全不行。
仏教的には全然オッケーじゃないんですよ。
明白了。
わかった。
也就是说,意识理解了逻辑,这只是迈出了修行的第一步,之后还必须将其内化到自己的身体中才行。
それは意識が論理を理解したっていう言ったら、その修行に踏み出すファーストステップがクリアされただけであって、そこからそれを自分の身体に落とし込まなきゃいけないわけですよね。
也就是说,它并没有变得致命。
しにくなってないっていうことですね。
因此,需要一种超越语言的、直接的全人格直接体验,让我亲身体会到'世界对我来说就是这样的'。
そのためには、だから、その 言語を超えた直接的な全人格的直接体験として、私にとって世界っていうのはこうだよねっていう体感が必要なんですよね。
所以,人们会去瀑布下冲淋、攀登悬崖或是持续冥想,在这些过程中,佛像——就像刚才提到的——尤其与密教相关,更进一步说,是在大乘佛教内部。
で、まだ滝に打たれたりとかですね、崖を登ったりとかですね、ひたすら瞑想したりするわけですけど、その中でその仏像っていう、今の話ですね、これ特に密教に関わってくるわけですけど、もっと言うとですね、この大乗の中でも。
在进入密教领域之前,佛像基本上都是释迦牟尼佛。
その密教方面に行く手前は、基本的にお釈迦様ばっかりですよ、仏像って。
像上座部那样的流派,基本上就只有释迦牟尼佛了。
おお上座部なんかだったらシャクソンしかいないですからね。
佛像嘛。
仏像なんで。
因为是佛陀的像。
ブッダの像ですから。
所以,只有佛陀。
なので、ブッダしかいないんですよ。
说到佛陀,在上座部佛教里只有释迦牟尼佛一位,所以无论去哪个寺庙,即使有很多不同的像,基本上全都是释迦牟尼佛。
ブッダといえば、上座部だったらお釈迦様たった一人なんで、どこのお寺に行って、いろんなお像があっても、全部お釈迦様ですよ、基本的に。
简单来说,就是制作类似老师的铜像,然后通过修行来表明'我们要向这位尊者倾注心意'的意思,对吧。
要は先生の銅像みたいなものを作って、この方に心を寄せるんだよねって言って修行していくわけですよね。
所以从这个意义上说,那是一种象征,具有这样的含义。
だからあれはそういう意味で、そういう意味でのシンボルなんですね。
然而,进入大乘佛教后,更进一步朝着密教的方向发展。
ところが、大乗に入り、さらに密教っていう方向ね。
虽然密教的正式确立可能要晚得多,但当密教方向出现时,就像您刚才说的,各种佛和菩萨,比如文殊菩萨手持宝剑等等,就出现了。
密教が確定するのはもっと後なんでしょうけど、密教的な方向っていうのが現れた時に、様々な仏とか 菩薩っていうのがですね、今おっしゃったように、例えば文殊菩薩が剣を持っているとか。
虚空藏菩萨手持如意宝珠这样的魔法之珠,象征化的形象便出现了。
虚空蔵菩薩は如意宝珠っていう魔法の玉を持っているとか、提携化されたものが現れてくるんですよね。
那是在做什么呢?就是说,将佛——自己应当成为的佛的形象——作为象征固定下来,然后让自己逐渐成为那个形象。
あれ何をしようとしてるのかっていうとですね、つまりその仏、自分がなるべき仏の姿っていうものを シンボルとして固定をして、そしてそれを、それに自分がなっていく。
是通过冥想获得那种身体性的意象。
その身体性を自分が得ていくっていうイメージの瞑想するんですね。
不过,文殊菩萨持剑,被称为智慧利剑,也就是之前——呃,是两次前吧——提到的中观思想。
ただ、文殊菩薩が剣を持ってるのは、あれはその知恵の利剣っていう言い方をされていて、つまり先ほどぐらい、えっと、2回前でしたかね、中観思想っていうことを。
中观教义中'一切皆空'的直观理解力,即百分之百理解的能力,正是由文殊菩萨的剑所象征的。
中観の教え一切が空っていうことを直覚的に理解する、100パーセント理解するための力っていうのが、もんじゅの剣に象徴されてるわけですね。
也就是说实相论。
つまり実在論。
文殊菩萨的剑能够彻底斩断并消除'事物作为事物存在'的这种观念。
モノがモノとして存在するっていう考え方をスパンと切って失わさせてくれるのが、もんじゅの剣だと。
然后,我将这尊文殊菩萨像置于眼前,一边冥想,一边想象着:这把剑能斩断实相论,我必须获得这把剑。
そして、私はこのもんじゅ菩薩のお像を目の前に置き、この剣は実在論を斬ってくれるんだ、私はその剣を得なきゃいけないんだっていうイメージをしながら、瞑想をしたり。
通过进行各种手印等动作,旨在让所追求的理想形态作为身体感觉逐渐渗入模仿之中。
様々なその指揖とかをするっていうことによって、真似しきの中に、その身体感覚として、自分の求める理想形っていうのが、じわじわ入ってくるっていうのが狙われている。
为此佛像就需要被象征化。
そのために仏像っていうのは提携化される必要があったわけですね。
嗯,说到底,这并非目的,更像是一种催化剂或者说工具。
まぁ、あくまでなんていうか、それが目的ではなくて、なんていうか、触媒っていうか、道具です。
原来如此,是工具啊。
道具なるほど。
那么那个呢,我最初听到的时候也觉得很有意思,但它并不是崇拜的对象对吧。
じゃあそれがね、僕も最初に聞いた時、へーと思ったんですけど、崇拝の対象じゃないんですよね。
不是的。
ないです。
在密教中它明确是工具。
密教においても明確に道具です。
原来如此,为了让工具发挥威力,确实不能将其作为崇拜对象。
なるほど、道具としての威力を持たせるために崇拝の対象にしないといけないです。
你不会想成为那种被人说‘什么玩意儿’然后一脚踢开的东西吧。
なんやこんなもんっつって足蹴にするようなものに自分がなりたいと思わないじゃないですか。
所以这就是它被形式化的原因吧。
だからそこが有式化してるわけですね。
也就是说,自己虔诚崇拜、供奉祭品,真正认为是神圣的东西,自己的心就会向其靠拢。
つまり、自分が崇め奉ってて、お供え物をお供えて、本当に神聖だって思うものに自分が心を寄せていくわけですね。
通过这种方式,期待深层心理认知能够向那个方向靠拢。
そのことによって、その深層心理の認識っていうのがそっちに寄っていくっていうことを期待している。
原来如此,原来如此,就像是把崇拜之人的海报贴在房间里,想着自己也要成为那样的人,比如吉他手的海报,确实会让人真的逐渐进步的感觉。
なるほど、なるほどなんか、憧れた人のポスターを、えっと、部屋に貼って、自分もそうなるんだって思ったら、本当に何か、例えばギタリストのポスターとか、まさにまさにうまくなっていくみたいな。
对对,就是这样吧,会想要收集偶像的舞台服装、使用的设备,摆出同样的姿势之类的。
そうそう、ですよね、憧れてる人のステージ衣装とか、その使用機材とか、同じのを揃えて、ポーズとかも同じポーズして、ってしたいじゃないですか。
做着做着,这其实很能激励人,而且实际上也会让人越来越接近目标,对吧。
やってると、それ結構モチベーションになるし、実際に寄っていきますよね。
我觉得就是这么回事。
そういうことだと思います。
我觉得这大概是在发掘人类的这种特性吧。
人間の多分そういう特性を発掘してるっていうことだと思います。
就是把概念这样明星化,全部变成符号对吧。
それを、概念をそういうスター化して、はい、全部シンボルにしていくわけですよね。
比如聪明的人,就像文殊菩萨那样,像非常慈悲的观音菩萨那样,手持莲花之类的。
頭がいい人、もんじゅ菩薩みたいな、めちゃくちゃ優しい観音様みたいな、蓮華の花を持っています、みたいな。
超想变得温柔啊。
めっちゃ優しくなりてえ。
这样的话,就像在观音像前冥想一样。
ってなったら、観音様で瞑想するみたいな。
对对,所以,作为形象一致的观音,果然是被视为慈悲象征的佛陀吧。
そうそう、なので、イメージ一致させる観音様って、やっぱ慈悲のシンボル的な扱いされる仏だと。
她不会拿着剑之类的武器吧。
剣なんか持ってないですよね。
她手里拿着的是花呢。
お花持ってるんですよ。
原来如此原来如此,就是拿着那个装水的瓶子,或者真的手持莲花之类的对吧。
なるほどなるほど、あの水の入った瓶を持ってたり、その、ほんと蓮の花を持っておられたりするわけですよね。
果然是因为很温柔,如果你发烧了的话,要不要给你点水呢?
やっぱ優しいから、あなたが熱出てるんだったら、水あげましょうか。
或者说,这花很漂亮对吧。
とか、それお花綺麗でしょ。
果然会让他们拿着这些东西,而作为智慧象征的,比如文书或者不动明王之类的,果然就是拿着剑或者表情很吓人之类的对吧。
っていうものをやっぱ持たせるし、その知恵の象徴である、例えば文書とか、不動明王とかっていうのは、やっぱり剣を持ってたりとか、怖い顔してたりするわけですよね。
果然因为有这些象征物存在,根据想要进入哪种模式来改变它,这就形成了模式象征,也就是象征主义。
やっぱその象徴されるものがあるので、どのモードに突入したいかで、それを変えてるっていうことで、モード象徴、シンボリズムになってるという。
原来如此,这样的话,关于唯识,到这里应该差不多了吧。
なるほど、いうことでですね、唯識、これぐらいで大丈夫かな。
一旦理解了这个,最后我想录制一下实践部分会变成什么样就结束。
一旦これを踏まえたら、実践編がどうなるのかを最後、僕は収録して終わりたいんですよ。
也就是说,那么接下来呢。
ということは、よそのなんだ。
这么说来,到现在为止我们只谈了哲学方面的话题呢。
となると、ここまでだって哲学の話しかしてないですからね。
那该怎么办呢?
どうすりゃいいの。
我这个人啊。
俺これね。
所以我觉得佛教很厉害的一点是,从这里开始进入实践的部分真的很了不起。
だから仏教ってすごいなと思うのは、ここから実践に入るのがすごいなと思う。
我在想,如果不先说明这一点,后面的实践部分就会显得不够严谨,好像全都变成了一些美好的空谈,而不是从逻辑上推导出的必然结果——确实如此。
って思って、これを言っとかないと、この後の実践編が滑るんですよねなんか全部あのいい話みたいになっちゃうんで、いい話とかじゃなくて、論理的にそうなるな、確かに。
这样去理解的话,当我们理解了空与唯识,从这两者出发进行逻辑推演,确实会得出这样的结论呢。
みたいに理解しようとすると、空と唯識を理解すると、その二つからすると論理展開して確かにそうなるね、みたいな。
这话题真的非常有趣呢。
話むちゃくちゃ面白いですね。
非常感谢。
ありがとうございます。
不,非常感谢您。
いや、ありがとうございます。
今天真的感觉大脑像被激活了一样。
マジでちょっと脳汁がブワーって出た今日。
那么下次我们继续这个话题吧。
ということで次回は続きですかね。
非常感谢,非常感谢。
ありがとうございましたありがとうございました。
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