本集简介
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拜托了拜托了。
お願いしますお願いします。
这是史上最长的番外篇哦。
過去最長の番外編ですよ。
大概吧。
多分。
这个真厉害啊。
すごいな、これ。
番外篇已经不知道要发展到什么程度了。
もう番外編ももうなんかとどまるところ知らんやん。
这个嘛,正因为如此我们才能休息,因为是番外篇。
これね、その分、僕たちが休めますから、番外編が。
不不,是因为学习期变长了。
いやいや、勉強の期間が長くなるんでね。
原来如此,那是自费。什么自费啊。
なるほど、それはな、自費。何自費です。
真的在走向开悟。
本当に悟りに向かってる。
那个,是重要的比较。
それ、大事比です。
重要的比较。
大事比。
来来,要做什么呢?
さあさあ、何すか。
最后的主题就是最后了。
最後のテーマは最後ね。
那个,嗯,我其实一直想插句话,你们听说过六波罗蜜吧?
あの、まぁ、ここまでちょっとぶち込みたいなぁと思ってるのが、六波羅蜜って聞いたことあるよね。
六波罗探题不是出现过吗?
六波羅探題って出たじゃん。
那个好像是社会课考试里出现的,说是平清盛的根据地来着,六波罗探题啊,那个六波罗。
それなんか社会で出たテストで、あの平清盛の本拠地だったとかですね、六波羅探題とか、あの六波羅。
那是什么?
何それ。
就是类似这样的东西对吧。
みたいなやつですよね。
这是什么?
何ですかこれは。
关于这个六波罗蜜的话题,最后从龙玄先生那里听完后,嗯,我们就做个结尾结束吧,大概是这种感觉。
この六波羅密の話なんか、最後、龍玄さんから聞いて、まぁ、エンディングして終わろうかなっていう感じですね。
好的,我可以全权委托给你吗?
はい、丸投げしていいですか。
六波罗蜜是什么?
六波羅密とは何か。
好的,六波罗蜜首先从意思上来说,6就是数字6对吧。
はい、六波羅密ってまず意味から言うと、まぁ6は数字の6ですよね。
六波罗蜜的波罗蜜多这个词,虽然似乎有各种不同的解释,但可能被认为是正确的就是那个吧。
六波羅密のパラミターという言葉で、まぁちょっといろいろ解釈はあるみたいなんですけど、多分まぁ正しいと言われているのがそのなんだろう。
像是需要完成的事项。
完成させるべきことみたいな。
因此,六波罗蜜就是指六项需要完成的事项组合。
なので、六波羅蜜で6つの完成させるべき事柄のセットっていう意味になりますね。
关于这个'由谁来完成什么'的问题,基本上呢,虽然我觉得这是相当古老的观念,特别是在大乘佛教的语境下。
これ、誰が何を完成させるの のかっていうと、基本的にね、これ結構古い考え方だと思うんですけど、特に大乗の文脈ですね。
从最初我们就一直在讨论,在上座部佛教和大乘密教中,特别是在大乘佛教之后,包括密教在内的大乘佛教之后的菩萨们,他们修行的对象就是被称为菩萨的存在,这些大乘菩萨要完善自己的心性。
この初回からずっとお話ししている、その上座部、大乗密教ってある中で、その大乗以降ですね、密教も含めた大乗以降の菩薩と大乗の修行をですね、しようというものが菩薩と呼ばれるものなわけですけど、この大乗の菩薩が 自分の心と。
以及,这种运用身体的修行方式。
そして、この体を使った在り方ですね。
因此就是指在这种修行中六项需要完成完成的事项,所以修行大乘佛教、安装大乘修行大乘的修行者,应该以这六种修行方式完成修行方式。
そこにおいて完成するべき6つの事柄っていうことなので、この大乗仏教を修行し、大乗仏教をインストールし、それをもとに社会を生きようとする人は、この6つの在り方っていうのの。
请以完成这六种修行方式为目标度过每一天,就是这个意思。
完成ということを心がけて日々生きてくださいね、っていうような意味になるわけですね。
理想形象的要素吧。
理想像の要素みたいな感じですね。
是的,我觉得大家可以把它看作是日常生活中需要时常留意的事情。
そうですね、自分がもう常日頃気をつけて いることぐらいに思っておいていただいていいと思います。
确实如此,完全正确。
まさに、まさにもろそうですね。
这和戒律又有点不一样呢。
戒律とはまたちょっと違うんですよね。
有时也会将六波罗蜜作为一种不同的戒律来遵守。
ちょっと違う戒律として、この六波羅密を守りますとかっていう戒律が考えられたりとかですね。
是的,就是这样的结构。
そう、そういう構造になるわけですよね。
好的。
はい。
那么这六项具体是什么呢,我先简单介绍一下,详情下回分解。
で、この6つとは何かっていうと、まずざっと紹介すると伏せ次回。
布施、持戒、忍辱、精进、禅定、智慧这六项。
ニンニク、精進、禅定、智慧っていう6つなんですね。
我想逐一讲解一下这六项,首先第一个‘布施’指的是给予的行为。
これ1個ずつちょっと解説していきたいと思うんですけど、まず最初の布施っていうのは、与えることですね。
就是布施的那个布施,布施的布施。
お布施の布施、お布施の布施ですね。
在日本啊,说到‘布施’,往往是指给和尚、寺庙捐钱的意思,但原本这个说法可能——虽然没有定论——据说是梵语‘pūjā’这个词的音译。
日本でね、お布施って言うと、なんかお坊さん、お寺さんにお金払うことっていう意味になってますけど、本来はこれ多分ですね、ちょっと定説はないんですけど、サンスクリット語のプージャっていう言葉の音写じゃないかっていう考え方ですね。
这个‘pūjā’指的是什么呢?
プージャっていうのは、そのなんでしょうね。
意思是将自己的力量奉献给尊贵或美好的事物。
尊きものとか良きものに自分の力を添えるっていうような意味 ですね。
也就是说,将自己的金钱或资源等奉献给佛祖的功德,请求将我的力量作为佛祖的功德来使用,这就是布施的理念。
つまり、まぁ、だから、仏様の働きに自分の金とかですね、自分のリソースを添えて、その仏の働きとして私の力を使ってくださいっていうのを、これが布施っていう考え方ですね。
所以,我认为古典广播活动非常出色,这是我个人的看法。
なので、古典ラジオの活動が素晴らしいって思った方が、自分のですね。
正如我在这一期也提到的,这确实是多余的。
もう、この回でも言いましたけど、余剰ですね。
如果变成匮乏就不行了,要用自己可以放手的盈余部分。
欠乏になったらダメなんでね、自分のその手放してもいい余剰分を。
从这个意义上来说,这就是布施。
そういう意味では、布施なんですよね。
给予的行为。
手渡すこと。
通过给予古典电台,这份能量就会与古典电台的能量融为一体,共同创造出美好的事物。
古典ラジオに手渡すことによって、そのエネルギーは古典ラジオのエネルギーと一体化して、素晴らしいものを作っていく。
让世界变得更美好,同时自己也感到喜悦,这才是布施原本的含义和根本理念。
世界を良くしていく、それで自分も嬉しいっていうのが本来の布施という意味の元々の考え方なわけですよね。
所以说,要把'布施给予'这个行为作为首要的行动准则。
なので、この布施与えることっていうものを、まず根本第一の行動指針にしなさいということを言っている。
要进行这种布施,就必须像之前几次提到的,在盈余与匮乏之间设定阈值,不创造盈余就无法布施。
この布施をするためには、いつですかね、何回か前にお話をした、その余剰と欠乏の間の閾値を作って、余剰を作らないと布施できないんですよ。
因此,当决定要把布施作为自己的行动准则、作为六波罗蜜来实践时,就意味着要自动设定那个匮乏与盈余的阈值,超过阈值的部分就用于布施。
なので、この布施っていうことを 自分の行動指針にするんだ、六波羅蜜でやるんだって考えた時に、ということは、自動的にその欠乏、余剰の閾値を引いて、それを超えた分は。
与其想着'先存点钱吧'或者'钱再多也无所谓',不如去给予。
まぁ貯金しとこうとか、お金なんかなんぼあってもええから、じゃなくて、与える。
而且这种给予,并不是说施舍给谁,也不是对弱者进行什么赋能。
しかもそれ与えるっていうのは、誰かにこうくれてやるとかそういうことではないし、あと弱者ものにね、エンパワーメントしてもしょうがない。
而是让自己有幸能为那些珍贵美好、能让世界变得更好的事物贡献一份力量。
そうじゃなくて、その尊いもの、素晴らしいもの、世界を良くするものに自分の力を添えさせてもらう。
携手共进,与对方的力量融为一体——从这个意义上说,我们也需要寻找这样的伙伴。
手を取り合って一緒にやっていく、相手の力と一体化するっていうことになるわけだから、そういう意味ではそういう相手も探さなきゃいけないわけですよね。
所以布施这件事,绝非简单的给钱施舍,而是涉及相当广阔的领域。
なので、この布施っていうのは、単に、なんか金をくれてやるとかそんな話じゃなくて、結構広大な 領域が入ってくるわけですよね。
正因如此,这本身就是一种修行。
だからこれ修行になるわけですよね。
大乘六波罗蜜本就是菩萨的修行之道,要实践布施,首先必须反复强调——要划出那条界限。
この大乗六波羅蜜っていうのが、この菩薩の修行のところなので、この布施をしようとするためには、まず繰り返しですけどを引かないといけない。
要毫不犹豫地舍弃盈余。
余剰を手放すっていうことに躊躇を持たない。
为了释放这些盈余,我们必须认真寻找释放的对象,也就是奉献的对象。
その余剰を手放していくために、その手放し先ですね、その捧げる相手っていうのをちゃんと探さなきゃいけない。
并且,在与这个对象共同前行的过程中,布施这一修行才得以完成。
そして、そこと共に歩まなければいけないっていうところで、この伏せっていうのの完成ですよね。
要努力将这一点做到完美。
これをパーフェクトにしていこうっていう努力をする。
这样做下去,自己和世界都会变得越来越好。
それをやってると自分も世界も良くなっていくわけですよね。
这是理所当然的。
当たり前ですけどね。
这就是第一阶段。
っていうのがまず第1段階目ですね。
布施。
伏せは。
顺便说一句,不仅仅是金钱。
ちなみにお金だけじゃないですよね。
当然,技能、行为等所有能给予的东西都包含在内,正是如此。
もちろん、スキルとか行為とか、あらゆる渡せるもの全てが入るそう、まさにですね。
金钱在现代社会大概是最容易理解的例子,虽然我们会使用金钱,但正如您刚才所说,还包括劳力、知识,甚至真正的善意。
金っていうのが多分現代社会では一番分かりやすい例えなので、お金っていうのは使いますけど、当然、今おっしゃったように、労力とかですね、知識とか、あと本当に優しさとかもですね。
说到底,如果自己处于匮乏状态,这些也是无法给予的吧。
これも結局自分が欠乏状態にあったら出せないでしょ。
当自己被工作追得焦头烂额、烦躁不安时,根本不可能去帮助别人不是吗?
自分がめちゃくちゃなんか仕事に追われてイライラしてんのに、誰かの手助けをするってできないじゃないですか。
这就意味着没有剩余了。
それって余剰がないっていうことになるわけですよね。
其实可能本是有剩余的,但因为躺着玩手机更轻松,就变成'我什么都不想做'的状态,这本质上是被剩余的门槛限制住了。
で、余剰が本当はあるかもしれないんだけど、なんか寝っ転がってスマホをいじってる方が楽しいから、俺何もせえへんみたいな感じになると、これ要は余剰の閾値が敷かれて。
也就等同于没有剩余了。
ないっていうことになるわけですよね。
所以,当自己在这里已经足够时——当然休息也是必要的,适当休息和娱乐绝对需要——但要在'足够'的基准线上进行。
なので、自分はここで足りるから、もう休憩ももちろん必要なんでね、休憩をした方がいいし、遊びとかも絶対必要だと思うんだけど、足りるところっていうのを敷いて。
这是一种观念,即当自己拥有盈余时,就要进行布施,超越那个界限。
そこを上回って、自分が余剰を持っているものに関しては布施をするっていう考え方ですよね。
确实如此。
本当に。
对于知识和技能也是如此。
その知識とかに関してもそう。
时间方面也是一样。
時間とかもそうですね。
如果自己时间有盈余,将其用于有益他人之事,这就是布施。
自分の時間に余剰があるのであれば、それを誰か良きもののために使っていくっていうのは、これ、布施になるわけですよね。
原来如此,这就是第一条要做的布施。
なるほど、こういう布施をしなさい、というのが1つ目。
第二条,第二条写着要持戒自律。
2つ目、2 つ目、自戒、戒律を持つと書きます。
这里出现了'戒律'这个词,但通常说到佛教戒律,人们会认为就是各种'不能做这个''不能做那个'的禁忌。
ここでは戒律っていう言葉が出てくるんですけど、ここで言われている戒律って普通ね、仏教の戒律っていうと、あれしたらダメ、これしたらダメって思うじゃないですか。
那些'这个不行'、'那个不行'是基本准则。
そのあれしたらダメ、これしたらダメっていうのは基本。
这可能也是我们最开始谈到的净土真宗的印象。
これも一番最初にお話をした、多分浄土真宗のイメージなんですね。
净土真宗的戒律确实有220多条,比如做了这个会受这种惩罚,做了那个会受那种惩罚,例如不能触碰异性之类的。
浄土真宗の戒律っていうのは、本当に220何個とか あって、あっ、こんなことしたらこういう罰ですよ、こんなことしたらこういう罰ですよっていうので、例えば異性と触ってはいけませんとかね。
这些规定虽然非常细致,但在大乘六波罗蜜的语境下并非如此——尽管包含部分类似内容,简单来说就是关于自我...
そういうことがすごい細かく決められてるんですけど、この大乗の六波羅蜜の文脈ではそういうことではないんですね、含まれる部分はありますけど、結論から言うと、自分のですね。
身份认同的确立,或者说确立自己的原则并严格遵守。
アイデンティティ確立というか、自分の原則っていうものを確立し、それをきちんと守ろうとするっていうことですね。
确立自己的原则。
自分の原則を確立。
对,比如举个来说这个事情,'做个善良的人要成为戒律。
そう、つまり僕は、例えばめちゃくちゃ単純な話だと、優しい人でいようっていうのが戒律になるわけですよ。
自己设定的目标,就是说,自己对于所认知的'理想自我'的设定,这就是持戒的含义了。
自分で決めた目標、そう、自分自身に対して、自分がその認識している 自分の在り方っていうのの設定が、これ、戒律を持つっていうことになるわけですね。
因此,要诚实守信啊,绝对不欺骗他人啊,我绝不临阵脱逃啊,这些全部都可以成为戒律对吧。
なので、誠実でありましょうとか、絶対人を騙したりとかしないぞとか、俺は逃げたりはしないぞっていうの、これ全部戒律になるわけですよね。
这些原则当然可以随着时间推移而更新,但如果说因为麻烦就放弃已经设定的原则,那就完全说不通了。
それはその時々に更新されてもいいんだけど、でも設定したものをとはいえめんどくさいからやめようって、これはもう話にならないわけですよね。
所以必须明确建立自己的身份认同、个人原则,清晰设定'我就是这样的人'的准则。
なので、自分で自分自身のアイデンティティの確立、自分の原則、私はこうなんだというものの設定を明確にこれしないとね。
否则就会变成随波逐流的人。
しないと場当たり的な人になるわけですよ。
确实要是完全没有个人原则,只顾当下怎么舒服怎么来,怎么轻松怎么应付的话,就会变得越来越表里不一。
確かに特に自分の原則なんてなくて、その時その時で気持ちいいように、しんどくないように適当にしのいどいたらいいわって言ったら、もっと二枚舌、三枚舌になるし。
最终会变成毫无主见、缺乏人生阅历的人。
もう本当にフラフラ経験のないですね。
逐渐成为不值得信任的人。
信用ならない人に になっていくわけですよね。
确实没有个人准则的话,你看,如果要进行高维理解的话,从虚空角度思考,由于无法赋予自身绝对属性,那么在不赋予自身绝对属性的前提下,该与世界保持怎样的关系才最为理想。
確かにポリシーがないって、これさ、だから、すごい高度な理解しようとすると、その空から考えると、その絶対的属性っていうのを付与できないから、自分に絶対的属性を付与せずに、世界とどのような関係性を保つことが良きとされるか。
是否应该这样理解:对自己而言要彻底贯彻某种原则,并以重现这种关系的感觉来把握?
自分にとってみたいなことを 徹底し、そのような関係性を再現ししていこうみたいな感覚で捉えればいいんですか。
我认为这是非常宏观且精准的绝妙解读。
すごく大状的に正確な素晴らしい解釈だと思います。
也就是说,关于与其他主体的关系、与世界相处的方式,就是要确立自己的原则对吧。
つまり、その他社との関係性、世界との向き合い方に関して、自分が原則を持つっていうことですよね。
『绝不建立这种关系』这样的原则。
こういう関係は作らないぞ、と。
『绝不做出评判其他主体感受的行为』这样的原则。
こういう他社の感覚をジャッキするようなことはしないぞ っていう原則。
或者说,『一定要让对方产生某种感受』『要让对方开心』——确立这种自己与他人相处时的明确原则。
あるいは、こういう感覚に必ず相手を持っていこうと喜ばせるとかね、嬉しがらせるとかっていうことをするぞっていう、その自分の他者との向き合い方の原則をちゃんと持つっていうことですね。
所以不是固化自我,而是该怎么说呢...要明确关系及其延伸状态的目标指向,并致力于重现这种状态。就像被告诫『不能用规则零来约束自己』那样。
なので、自己を固定するんじゃなくてなんていうんですかね、関係性とその先の状態みたいなものの目指す先をちゃんと決めて、それを再現しようとするよ っていうことを、自分にルールゼロでやっちゃダメだよって言われてる。そういうことです。
就是在被告知『好歹定个原则啊』对吧。
よねなんか決めろよって言われてるってことですね。
对对,这个可以根据时期进行调整,但调整方式也不能因为嫌麻烦就不做,所以还是要好好确立原则。
そうそうそれは時期に応じて変更はしたらいいんだけど、でもその変更の仕方も面倒くさいからやめやっていうのでは話にならないんで、それはきちっと原則を持ちましょうねっていうことですね。
然后,这和刚才说的'伏せ'也是有关联的。
で、これ、さっきの伏せとも繋がってくるわけですよ。
也就是说,设定好阈值并决定要'伏せ',这本身也是一种对立关系呢。
つまり、閾値の設定をちゃんとして、伏せをするぞっていうのも、これ対立になるわけですね。
原来如此,原来如此。
なるほどなるほど。
除此之外,如果变成那种'想存点钱'的感觉,就会变得很随意了,所以在那时坚持原则是很重要的。
それはあとは、いえなんか金貯めときたいみたいな感じになると、もうワイクチャーになってしまうので、そこでちゃんと原則を持ちますよっていうことは大事ですよね。
这就是感性对吧,真的这样就行吗?
これの 感性ですよね、本当にそれでいいの。
关于这一点,感性也不是静态的含义,而是说要理解原则,并在与外科医生的关系中好好应用,我们追求的就是这种被称为'甲斐原光'的状态。
っていうことに関して、感性というのも、そのスタティックな意味じゃなくてですね、その、ちゃんと原則っていうのがわかって、きちんと外科医と関係性の中で適用していけるっていう状況を目指しましょうっていうのが、この甲斐原光と言われるものですね。
好的,这是第二个。
はい、これ2つ目です。
第三点是大蒜。
で、3つ目がニンニク。
大蒜这个东西,不是指那个garlic(大蒜)
ニンニクっていうのは、あの、いわゆる、あの、あれ、ガーリックじゃなくてですね。
是‘忍’字下面加个‘辱’的耻辱的辱
しのぶ耐え忍ぶっていう屈辱の辱。
忍者的忍字吗?
忍者の忍か。
‘忍’字加‘辱’字,意思是忍受屈辱,但我看到佛教入门书上写着六度波罗蜜时,总觉得是在
しのぶに屈辱の辱と書いて、屈辱に耐え忍ぶっていう意味に取るんですけど、でも僕はよくね、仏教の入門書とかで六波羅密って書いてるのを見ると、まさにですね、その屈辱に耐え忍ぶことみたいな表現がされてて。
虽然没错但总觉得不对
間違ってないけど間違ってるって思うんですね。
觉得‘处理屈辱’听起来像是被嘲笑还要忍耐的意思
屈辱に対処するってなんかバカにされてそれ我慢するみたいな意味に取るでしょ。
虽然也有这层意思,但我觉得更重要的是‘不屈服’
まぁそれもそうなんだけど、そんなことじゃなくて、あのね、折れないっていうことだと僕は思うんですよ。
也就是说,这个顺序是有讲究的。
つまりその、これ順番があるわけですね。
即使以这些不正之事为前提,持戒律面对世界,还是会发生一些自己意想不到的糟糕事情。
その不正っていうことを前提に戒律を持って 世界に向き合ってても、なんか自分自分が思ってもみない嫌なことって起きるわけじゃないですか。
确实,不可能事事顺心,总会有不如意的时候,比如本不该是这样的结果却变成了这样。
そうですね、そんななんかいいことばっかりあるわけないし、うまくいかないとかですね、こんな結果になるはずがないのに、こうなっちゃったみたいなことあるわけじゃないですか。
如果因为觉得太讨厌就放弃的话,那游戏就到此结束了。
それに関して、もうこんな嫌やからもうやめじゃってやったら、そこでゲームセットですよっていう話になるわけですよね。
不是在那里崩溃或消沉,而是要忍耐坚持。
そこで折れたり腐ったりするんじゃなくて、そこを耐え忍べと。
不不,虽然这次没有结果,但我已经决定走这条路了。就像之前三区的访问,还有上次,以母亲般的大慈大悲之心,尽一切方便之法。
いやいや、これは結果が出なかったんだけれども、でも僕はこの道をいくって決めたんで、さっきの3区の訪問もそうですね、前回のね、母、大心を持って、慈悲を根本として方便を尽くすっていうことを決め。
所以
たんだから。
因此无论现在有没有结果,如果改变这个决定,那我自己就完了。我绝不会改变,这又和刚才说的戒律有关联。
それで今結果が出ようが出まいが、これを曲げるって言ったらもう自分は終わってしまうんで、これは曲げないぞ いう、これもまたさっきの戒律に関わってくる話になってくるわけですけれども。
所以就会反复摇摆不定呢。
そこでコロコロですね。
这边会比较好吗?
こっちかなあ。
无法顺利进行呢。
うまいこといけんや。
不要想着'放弃吧,或许这边更好',如果总是说放弃的话最终什么也成就不了,所以既然设定了自己的原则,那就应该...
もうやめや、こっちかなあなんか思んない、もうやめやって言ってたら結局何にもならないですよっていう話なので、自分のその原理原則っていうものの設定がなされたのであれば、その、しょう。
就是说,那个,真的呢,虽然我觉得没必要冒生命危险之类的,但如果因为一点小事就轻易折断或者软弱弯曲的话,那就没有意义了。
もう、その、ほんまにね、命の危険とかは、その、犯す必要はないとは思うんですけど、ちょっとやそっとでですね、ポキポキ折れたりとかですね、ぐにゃぐにゃ曲がったりしてたらもう意味ないんで。
这里所说的就是要怀有忍耐之心,这就是第三个‘忍辱负重’的含义。
そこは耐え忍ぶっていう心を持ちなさいよっていうことが言われてるのが、この3つ目のニンニク腹三つっていうことですね。
确实,学习玄奘或鉴真的事迹时,感觉他们就是这么做的。
確かにその玄奘とか鑑真の勉強してると、めちゃくちゃこれ してる感じがしますね。
对对,确实是这样。
うんうん、確かにね。
确实是那样,绝对不会折断的。
そのまんま絶対折れないもんね、確かに。
好的。
はい。
那么接下来是第四点。
で、次 4 つ目ですね。
这个。
これ。
下一个是精进腹三。
次は精進はらみつですね。
'精进'这个词在日本也已经成为日常用语了。
精進っていうのは、日本でも日常用語になってますよね。
比如精进斋之类的。
精進シーアとかね。
还有在京都那些地方,有些店门口就挂着精进料理的招牌。
あと、あの京都とかだったら、精進料理っていう看板が上がってるところもあって。
说到底,那种含糊不清的状态确实很难理解吧。虽然被人说'要精进啊'和'加油啊'听起来差不多,但它的含义绝非那么浅薄。
結局やっぱりその何ごちゃわからないですよねなんか精進しやーって言われて、頑張れよって言われてるのと一緒だけど、ほんとそんな軽い意味じゃないんですよね。
所谓'精进'的本意,是指针对正确结果的行为,面对既定目标时,怀着勇气毫不迟疑地持续走在实现目标的道路上。
精進っていうのの本来の意図っていうのは、正しい結果を出す行いに対して、設定した目的に対して、正しくその目的が果たされる道筋を、勇気を持って 困らず歩み続けること。
大概就是这样的含义。
っていうぐらいの意味なんですよ。
换句话说,那种胡乱挥棒或者盲目乱跑的行为,并不能称之为精进。
つまり、その無駄玉を打ちまくるとか、闇雲に走り回るっていうのは、精進とは言わないんです。
就是这个意思。
そういうことね。
有些人会说'我很努力了',但问题在于,这种努力的方式是否正确。
俺、頑張ってんねんっていう人いるけど、いや、その頑張りの、その頑張り方は正しいの。
这个提问的关键在于
っていう問いっていうのが
好的,原来如此。
はい、なるほど。
意思是要理解结构并采取恰当的措施。
構造を理解して適切な手を打てよってことです。
是的,就是说如果知道什么是恰当的措施,那么即使它有点可怕或辛苦,也必须勇敢前进才有意义,这才是精进本来的含义。比如说,
そうです、ことですことを言われてると、はい、その適切な手っていうのがわかってるのであれば、それが少々怖かったりね、辛かったりしても、勇敢に進まないと意味ないよって言ってるのが、これが本来の精進の意味なんですね。例えば、そ
明明有从京都去东京的目的,却不知为何往西走。
の京都 から東京に行きたいっていう目的があるのに、なぜか西に向かって進んでしまうみたいな。
这样的话,无论多么努力都不能称之为精进。
これ、どんだけ頑張ってても精進とは言わないんですよ。
即使因为到不了目的地而决定往东走,就算心里有点害怕东方,也得告诉自己‘别怕,去吧’,对吧?所以这才是精进。
目的地に着かないんで東に向かうってなっても、なんかちょっと東怖いなーみたいなことがあったとしても、いやいや行けよっていう話になるわけですよね。なのでこれが精進。
这还是现状对吧?
まだ現状ですよね。
就像这样一直持续,真的,六波罗蜜并不一定是按顺序连接的,但布施这种方式,有为善行助力的作用。
ずーっとこう、ほんと、六波羅密って、必ずしもそのシークエンシャルにつながるわけじゃないけど、その布施っていうあり方、その善なるものに力を添えるっていうのがあって。
要有自己存在方式的设定,然后有不屈不挠、不气馁的精神,还有正确的目标设定、正确的方法选择,要勇敢地前进,这些就是精进。
自分の在り方の設定っていうのがあって、そして折れない、腐らないっていうのがあって、そして正しい目標設定、正しい手段の選定があって、勇敢に進んでいくんだよっていうのがあって、っていうの、これが精進なんですね。
从这个意义上来说,所谓的精进料理到底是什么东西,实在搞不明白。
そういう意味で考えると、そのなんか精進料理って何のこっちゃわかんないですよね。
确实是不放肉的料理吧。
確かに肉が入ってない料理なのかな。
吃了不放肉的料理到底怎么个精进法,完全搞不懂,虽然作为文化现象倒也无所谓,但从字面意思来说总觉得不太对。
肉が入ってない料理を食って何がどう精進になるのかよくわからないっていう話になるので、まぁまぁそれはそれで文化で別にいいんですけど、言葉の意味としてはあんまりその。
如果模糊理解的话,六波罗蜜就会失去本意,精进不就变成单纯修行了吗?
ふわっと取っちゃうと、六波羅密っていうのが意味がわかんなくなるなんか精進って修行することでしょう。
这样就会陷入自我循环的语法逻辑,所以重点不是这个意思。
みたいななんか、それも自己循環文法みたいになってしまってるので、そういうことじゃなくて、っていうことですね。
我觉得这是个相当重要的概念。
結構これ大事な概念だと思います。
这真正关乎目标设定和手段选择。
それ、ほんまに目的設定とか手段の設定を追ってるの。
如果缺乏对这些根本问题的思考,盲目努力就会变得毫无意义。
っていうところの問いがないままに無駄に頑張ると意味がわからんことになるわけですよね。
这样是不行的,光说不练也是完全不可取的。
それではいけないし、言ってるばっかりで実行しないっていうのも全然ダメ。
这两者结合才是精进的真谛,就是这个意思。
これ、両方が合わさってるのが精進ですよ、ということですね。
第五个禅定,大家应该都能想象到,就是通常所说的冥想修行。
そして5つ目の禅定っていうのは、これ皆さんイメージつくと思いますけど、その瞑想修行っていうのが、一般に言われる意味ですよね。
坐禅,就是禅修。
座禅、禅ですよね。
这个‘禅’字我觉得也需要解释一下,它源自梵语的‘Dhyāna’这个词。
この禅という言葉も結構僕は解説が必要かなと思って っていて、元のサンスクリットはディアーナという言葉ですね。
‘Dhyāna’这个词被音译为‘禅’,名称简化后就成了禅。
ディアーナという言葉を禅と漢字でとって、名が落ちて禅なんですね。
‘Dhyāna’这个概念嘛——虽然存在多种解释——本质上是指冥想状态。
ディアーナっていうのは、そのなんだろうな、これもちょっと諸説あるんですけど、瞑想状態みたいなものですよね。
所谓禅定,就是进入心境不动的境界,简单来说就是精神修养。
その禅定定というのは、定まった状態ですから、ディアーナという その心が動かない境涯に入っていくっていうことが、まぁ、禅定なので、それ、何を言ってるかっていうと、平たく言うと、精神修養なんですね。
为了正确完成这些布施、持戒、忍辱、精进,如果心神散乱、注意力分散、焦躁不安或愚昧无知,是无法做到的。
この不正、自戒、忍辱、精進っていうことを正しく完成させるために、心が散乱していたりなんか、あっちゃこっちゃに意識が散ってたり、イライラしとったり、アホだったりするとできないんですよ。
因此,为了抑制自己散漫的心,正视并控制愚昧之处,如果不认真进行精神修养,可能会自以为做到了却做出愚蠢之事,这就是禅定的含义。
なので、その自分の散漫する心みたいなものを抑え、愚かしさっていうところをきちんと向き合って制御していくために、精神修養をちゃんとしなかったらなんかできてるつもりでアホなことする っていう結果になりかねないよねっていうのが禅定八眼なんですねな。
所以,虽然面壁坐禅之类的方法只是手段之一,但并非必须如此,正如刚才稍微提到的,冥想修行等。
ので、ただ、その免壁八念とかって、壁に向かって座るとか、もう手段の一つだけど、必ずしもそうではなくて、先ほどもちらっと言いましたけど、その瞑想修行とかっていうのは。
并不仅仅是坐着闭上眼睛静心而已。
その座って目を瞑って心をいたすだけじゃないんですよね。
在任何人生阶段,如果精神没有以修行的形式被引导向觉悟的方向,那就不算是修行。
あらゆる人生のステージにおいて、それが修行っていう形で、精神っていうものをその悟りの方向に導いていくことっていうのが起きなかったら、修行じゃないんですよね。
无论被瀑布冲刷多少年,进行三十年洞穴闭关修行,或是完成多么艰苦的修行,如果心灵没有走向正确的觉悟方向,这些都不能称之为修行。
もう何年間滝に打たれようが、30年間洞窟にこもる修行をしようが、どれだけすごい荒行を成し遂げようが、それで心が正しい悟りの方向に行ってなかったら、そんなものは修行とは言わないわけですよね。
因此,我们需要构建正确的心灵状态。
なので、その正しい心のあり方っていうものを作っていく。
这里所说的正确性,是指对中观唯识的理解变得更加准确和精密,但必须通过与之相关的行为实践来正确行事。
で、ここで言う正しさっていうのは、中観唯識っていうところの理解っていうのがより正確に精密になっていくっていう意味なんですけど、それにつながるような行い行って、いうことを正しくしないと。
也就是说,如果不理解佛教基本原则哲学中的中观唯识,
つまり、その中観唯識っていう仏教の原則の哲学がわかってなかったら、
为什么要伏下呢?
なんで伏せすんねやったっけ。
就会变成这样。
ってなるんですよ。
结果就会想'为什么我这么喜欢大蒜啊'或者'修行时我该去哪里来着'
結局なんかそれでにんにくってなんでこんなこと大好きなかんねやとか精進するにあたって、俺どこに行ったらやったっけ。
就会变成这样。
ってなるわけなんですよ。
为了防止这种情况,需要磨砺自己作为佛教徒的智慧,这就是禅定的意义,如果做得不正确就无法顺利进行。
で、それを防ぐために、自分自身のその仏教としての知性っていうものを磨いていくっていうのが禅定っていうことなので、これも正しく行わなければうまくいかないっていうことですね。
最后第六种智慧,只有这个有点特殊。
最後、6 つ目の知恵っていうの、これだけがね、ちょっと一つ異質なんですよね。
这原本就是5+1结构的六波罗蜜。
これは5+1っていう六波羅密っていうのが5+1の構造にもともとなってるんですよね。
那么,这前五项就是福德。
で、この手前の5つがその福徳。
是的。
ですね。
那个怎么说呢,在自己内部积累能量的就是这前五项——布施、持戒、忍辱、精进、禅定,通过它们来积蓄能量。
あのなんだろう、その自分の中に溜めるべきエネルギーみたいなものを作るのが、この手前の5つ、布施、自戒、忍辱、精進、禅定っていうのが、自分の中にエネルギーを溜めることで。
最后这个智慧,就是指那种能量得以发挥出来的意思。
最後の一つのこの知恵っていうのが、そのエネルギーが発揮されることっていうような意味なんですよね。
那么,这个智慧虽然也是智慧,但这里所说的智慧,并不是指能看懂股票市场之类复杂的事情,而是指觉悟的智慧。
で、この知恵っていうのはもう知恵なんですけど、ここでいう知恵っていうのは、例えばその株式市場がちゃんと読めるとかね、そういう小難しい話ではなくて、その悟りの知恵のことですね。
所谓觉悟的智慧,简单来说,就是能够以不同于普通人的视角看待事物。
悟りの知恵っていうのはどういうことかっていうと、平たい言い方をすると、普通の人とは違うものの見え方をするようになるっていうことですね。
能够以与以往的自己略有不同的方式看待事物。
今までの自分とはちょっと違うものの見方をする。
刚才,上次深井先生提到的三区访问,真是厉害啊。
先ほど、前回ですね、深井さんがおっしゃったその3区の訪問、やばいよね。
如果只是普通地粗略一看,会觉得好像也没写什么大不了的事情,但总觉得这不是说了很厉害的话吗?
普通にさらっと見たら、別に大したことを書いてないように見えるんだけど、なんかこれすごいこと言ってないか。
之所以会浮现出这样的见解,是因为智慧涌现出来了。
っていう見解が現れてくるっていうのは、これ、知恵が湧いてきたからなんですよね。
为什么智慧会涌现呢?是因为前面的五项接近完成,智慧就会随之更新。
なぜ知恵が湧くかっていうと、その手前の5つが 完成に近づいていくことによって、知恵っていうのがアップデートしていくわけですよね。
那么,最后的智慧完成——智慧、腹、光是什么意思呢?就是说在那里产生的、与以往不同的智慧存在方式和看待事物的方式不会退化,并且要正确运用它来生活。嗯,就是这样。
で、その最後の知恵の完成、知恵、腹、光っていうのはどういうことかっていうと、その、そこで生まれてきた、今までとは違う知恵のあり方、ものの見え方っていうのが退化しないっていうことと、それを正しく使って生きるっていうことですね。で、まぁよ。
这就是修行所带来的。
くあるのが、その修行しました。
五福德已经相当不错了。
5つの腹光が結構できてきました。
我开始有了不同的视角。
違うものの見え方してきました。
原来这个世界是由关系构成的,而将实体视为金钱或物质之类的看法其实是有点不同的。
この世の中っていうのは、なるほど関係性で成り立っていて、そのお金とかものとかに実態を見るっていうのはちょっと違うんだな。
然后,看清需求的阈值,将剩余的部分给予他人,这才是正确的做法。
そして、必要の閾値を見て、余剰っていうのを与えていくっていうのがいいことなんだな。
就像大母神的慈悲那样。
母大神慈悲みたいな。
啊,原来如此原来如此,我懂了我懂了。就这样逐渐领悟。
あー、なるほどなるほど、わかるわかる。ってなってきて。
虽说如此,说着说着又回到原点。
とは言え、つって元に戻る。
这个已经毫无意义了。
もうこれは意味ないんですよね。
因为智慧尚未达到圆满境界。
知恵が完成に向かってないっていうことなので。
原来如此,从逻辑上确实是这样,而且身体感知也认为正确的话,那就按照这个层次生活下去。
そっかってそれ論理的に確かにそうだななんか自分は身体感覚でも正しい気がするってなったら、そのレベルで生きていくっていうことですね。
如果不这样做,最终是无法走向开悟的。
それをやらないと、結局その悟りには向かいようがない わけですから。
因此,通过前五个步骤创造这种能量,让智慧不断增长,并实际运用它来实现生存之道。
なので、この手前の5つでそのエネルギーを作って、この知恵っていうものが増大してきて、それを使って実際に自分が生きていくっていうことを成し遂げる。
这就是持续螺旋上升的循环过程。
これがスパイラルでずっと回るわけですよね。
这样一来,智慧层次就会不断提升,越来越接近开悟境界。
そうすると、知恵のレベルっていうのがどんどん上がってきて、どんどんその悟りに近づいていく。
也就是说,以菩提心为因、大悲为根本、方便为究竟——这个三区访问的三角结构,将发挥出强大的实践力。
つまり、その菩提心を原因とし、大悲を根本として、方便をもって苦境となす、あの3区の訪問のこのトライアングルっていうのがですね、グーッと実行力を発揮してくるわけですよね。
于是布施的方式又会发生变化。
そうすると、また布施のあり方が変わってくる。
接着持戒的方式会改变,事物的韧性也会提升,不同层次的六波罗蜜又会作为新课题出现。
次回、戒律のあり方が変わってくる、物のレジリエンスが上がってくるみたいな感じで、違うレベルの六波羅蜜っていうのがまた課題として現れてくる。
当克服这些后,境界又会大幅提升。
それをクリアすると、またグーッとレベルが上がる。
这样又会呈现出全新的布施方式,通过这六波罗蜜,就能逐渐接近真正菩萨、完全觉悟者的境界。
そうすると、また違う布施のあり方が現れてくるっていうので、真の菩薩、完全に悟りし者に近づいていくっていうのが、この六波羅密ですね。
那么,刚才我从佛教的角度大致说明了,这其实是一种思维框架。
で、今、仏教っていう立場からざーっと説明しましたけ、ど、これはやっぱりね、フレームワークなんですよね。
因为是思维框架,所以可以将其应用到日常生活、企业经营等各种场景中,按照这个六波罗蜜的框架来生活,确实如此。
考え方のフレームワークなので、これをいろんな日常生活とかですね、企業の運営、経営とかに落とし込むことも可能だし、この六波羅密のフレームっていうので生きると、確か。
对我来说,感觉非常不错。
に、僕はすごくこう、いい感じ。
虽然这种说法比较笼统,但我觉得效果会很好。
もう、この、ざっくりした言い方ですけど、いい感じになると思うんですよね。
原来如此原来如此。
なるほどなるほど。
哎呀,应该是这样吧。
いやー、なるだろうな。
嗯,应该会这样吧。
まあまあなるでしょうね。
要是能做到这个程度的话...说实话我连第六条持续不中断都经常做不到,感觉还有很多不足。
これできたらいやで、僕結構6個目もずっと継続するなんか忘れないみたいなのがむちゃくちゃやれてないこと多いなと思いました。
我觉得很难。
難しいと思います。
虽然有时候和不同的人交谈会受到震撼性的冲击,但基本上回到日常生活就忘了。
いやなんかいろんな人と話してガーンって衝撃を受けたような 感覚になることあると思うんですけど、だいたい日常に戻ったら忘れてるんすよ。
这很正常吧。
いや、普通ですよね。
所以这意味着前面的五项中有三项还没达标对吧。
なので、その手前のそれは5つの腹3つが足りてないっていうことになるわけですよね。
原来如此,这种智慧就像是支撑在柱子上的感觉吧?我有点...
なるほど、柱の上に乗ってるみたいな感じなんですかね、この知恵が。そうですねなんか僕。
'智慧'这个词不是普通词汇吗?
知恵って普通の言葉じゃないですか。
在日语里不算日常用语吧?
一般語彙じゃないですか、日本語で。
本来就是由这五项支撑着的。
もともとこの5つに支えられてるんだ。
像是这样的发现。
みたいな発見。
虽然觉得特别有意思,但提高分辨率后发现,通过螺旋式相互提升布施、持戒、忍辱、精进、禅定这五度而显现出来的东西就是智慧。
めっちゃおもろかったすけど、解像度高くしたら不正事会人肉精進禅定っていうのをスパイラルで高め合っていくことによって発揮されるものが知恵ってっていうこと。
智慧真是了不起啊。
知恵すげーな、みたいな。
说到智慧啊,大家通常只觉得它和知识差不多吧。
知恵ってね、ただの知識ぐらいの感じで思ってるよね。
这样就能很好理解知识与智慧的区别了。
知識と知恵の違いがそれでよくわかる。
是的,原词是Prajñā(般若)嘛。
はい、元の言葉はプラジュニアですからね。
这里所说的智慧Prajñā,就是被翻译成般若的那个概念。
ここの知恵っていうプラジュニアは、い、あの般若と訳されるものです。
因为是般若,是Prajñā的智慧,所以就成了般若智慧。
般若だから、プラジュニアーの智慧だから般若智慧ということになるわけですね。
这个,不是有般若波罗蜜多吗?
これ、般若波羅蜜ってあるじゃないですか。
那个的般若波罗。
あれ の般若波羅です。
完全一样。
全く一緒です。
那么,般若波罗蜜多智慧是这么说的。
じゃあ、般若波羅、密陀知恵って言ってるんですね。
说是智慧的圆满、智慧的圆满。
知恵の完成、知恵の完成って言ってんだ。
是《心经》吧。
般若心経ですね。
因为这就是那五蕴,所以《心经》就是智慧圆满的核心教义啊。原来如此。
それが、この5つがそうだから、般若心経っていうのは、知恵の完成の、その核心の教っていうことですね。なるほど。
很深奥啊,很深奥。
深いね、深いね。
确实,现在真的全部都做到了呢。
確かにマジで現状全部できてるね。
是啊,那真的很厉害。
そうね、それすごいな。
果然还是要遵守戒律面对苦难。
やっぱな戒律守りながら苦難に。
不只是戒律,还有自己擅自定的规矩呢。
戒律もだけど、勝手に自分で決めたルールありましたもんね。
他也有自己的规矩呢。
彼ルールもあったな。
就像是决定要那样做一样。
それをやるって決めてみたいな。
是的,根据刚才的讨论补充一点,还有一个概念叫做'不退转'。
そうですね、今の話で付け加えると、もう一つの概念で不退転っていう言葉があるんですね。
不退转。
不退転。
那个,相扑力士们在大关或横纲晋升时不是常说嘛
あの、よくお相撲さんとかがね、大関とか横綱になる時も言うじゃないですか。
就是'以不退转的决心'之类的,政治家们也经常这么说对吧
あの、不退転の覚悟でとか、政治家とかもよく言うじゃないですか。
其实啊,这个佛教术语的用法有点被误解了
あれね、仏教用語でちょっと使い方間違ってるんですね。
'不退转'不是用来下决心的,而是已经达到的状态
不退転って覚悟するもんじゃなくてなっちゃう。
按一般理解,'不退转'像是'我绝对不退缩'这种感觉对吧
不退転って、あの普通の互換だと絶対に引かないぞっていう感じじゃないですか。
但真正的'不退转'不是不退缩,而是想退也退不了
引かないぞじゃなくて、本当に不退転になっちゃうと引けないんですよ。
已经无法停止了
もうやめれなくなる。
无论怎么想都觉得痛苦,明明知道很煎熬却停不下来
何をどう考えてもきついし、もうこれはしんどいわってわかってんだけどやめれない。
那是指状态本身对吧。
じゃあ状態のことなんですね。
能达到那种境界就是理想状态了。
その境地まで至るっていうのが理想ということですね。
这就是所谓不退转菩萨的境界,从那里开始才称得上真正的大乘菩萨。
それが不退転の菩薩って言われる状況で、そこからが本物の大乗菩薩だって言われるわけですね。
是指想停却停不下来吗?
やめたいけどやめれないってことですか。
对,虽然心里有想停的念头,但会觉得‘要是停了我就没有活着的意义了’,于是不得不继续做下去。
そう、やめたい気持ちがあったりするんだけど、でもこれやめたらもう俺生きてる意味ないしなっていう感じになって、それをせざるを得ない。
这种‘只能继续做下去’的状态,正是不退转的证明。
もうそれするしかないわっていうのが、これ不退転の証拠なんですよ。
确实是这种感觉呢。
そんな感じだもんね。
因为要是停了的话。
なんでね、やめたら。
确实会有这样的情况呢。
みたいなのはあるもんね。
现状先生也像是在穿越塔克拉玛干沙漠一样。
現状さんも、なんかあんなタクラマカン砂漠を渡ってる。
虽然会觉得还是放弃比较好。
やめといた方がいいよって思うんだけど。
不,就算是死,小笠原先生也是这样的吧。
いや、もう死んでも小笠原もそうですよね。
就算乘上遣唐使船可能会死,但还是要说‘不这么做不行’,这就是所谓的不退转吧。
遣唐使船乗って死ぬかもしれないのに、いやもうそれをしないと って言って俺は不退転っていうのはああいうことですよね。
并不是在努力不放弃。
やめないように頑張ってんじゃないですよ。
是无法放弃,无法放弃。
やめれないやめれない。
所以那就是因为,母亲,因为有宏大的心愿,是的。
それはだからあれですよね、母、大心があるから、そうです。
因为知道如果现在自己在这里放弃会带来什么后果,所以为了不让那个因果成立才无法放弃,是这个意思吧。
あって、今に自らがここでやめたらどういう結果が出てくるかがわかってるから、その因果を結ばせないためにやめれねーなと思って やってるってことか。
是的,就是这个意思,用六波罗蜜来说,智慧的圆满就是指这个。
そう、そういう意味で、六波羅密で言うと、知恵の完成っていうのはそういうことですよ。
实践了五波罗蜜后智慧涌现的结果,就是已经没有了放弃的选择,从而变得不退转,是这个意思吧。
5つの波羅密をやって知恵が湧いてきた結果、もうこれやめる選択肢ないわなってなって、それで不退転になるってことか。
是的,不退转。
はい、不退転ない。
我,全都能放弃。
僕、全部やめれる。
确实,决心的最高境界就是不得不做的状态啊。
確かに、決意とかの最高峰が せざるを得ないっていう状態だもんな。
是的,并不是在努力什么的。
そう、頑張るとかじゃないんですよ。
真的没有在努力啊。
本当に頑張ってないんすよ。
就是已经别无选择,只能这样了。
もうもうそれしかないんで、もうしゃあないっていう。
意思是说没有其他选项了是吧。
他の選択肢がないってことですね。
对啊,反过来说不退转的状态就意味着确实等同于正在走向开悟呢。
そうなんですよなんかじゃあ逆に不対点の状態になってるってことは、悟りに向かってるっていう間違いないニアリーイコールですよね。
嗯,确实如此。
まぁ、そうですね。
无论好坏,都已经达到了对结构的理解状态。
よくも悪くも構造理解が達してる状態ですよね。
虽然如果再次升级形态可能会改变,但在这个理解层面上可以断言会变成那样。
それがまたアップグレードされたら形が変わるんだろうけど、その構造理解ではそうなるっていうところまでは言ってるってことですよね。
是的,这是《华严经》等经典中出现的概念——不退转,一旦达到不退转菩萨的位阶,就永远不退转,只会向前迈进。
そうで、華厳経とかに出てくる概念なんですけどね、不退転って、その不退転の菩薩の位まで行ったら、もう後はずっと不退転だから、前にしか進まないんですよ。
自动就会走向开悟。
もう自動的に悟りまで行く。
好,咱们来试着构建一个不退转的概念吧,虽然完全没在听别人说话。
よし、ちょっと不退転作ろうなんか全然聞いてね、話。
每天吃四块饼干,根本戒不掉。
毎日クッキーを4つ食う、やめれない。
没有慈悲啊,没有慈悲。
慈悲がねぇ慈悲がねぇ。
连慈悲的菩提心都没有。
慈悲の菩提心もねぇ。
什么都没有。
何もない。
看吧,作家的拜访这招很管用吧?
ほら、使えるでしょ、作家の訪問。
真的诶。
ほんとだ。
因为既没有慈悲也没有菩提心嘛。
慈悲も菩提心もないからね。
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什么都没有。
全然なかった。
确实如此。
ほんとだ。
因为无法接近开悟的境界。
悟りに近づかないですから。
那样的话,确实如此,原来如此,就会变成那种状态啊。
それだと、そうかー、なるほどな、なっちゃう状態って。
不过,在某些局部情况下还是存在的。
でも、なんか局地的にはありますもんね。
那个,虽然贯穿整个人生并不存在,但比如那种必须大家齐心协力才能成功的活动,即使感冒了也要坚持参加之类的。
あの、人生通してはないですけど、例えばなんか、もう絶対みんなで頑張って成功させないといけないイベントとかって、風邪ひいてもやるみたいな。
没错,这种感受我能理解。
そうですよね、感覚はわかる。
瞬间确实会有的吧。
瞬間的にはなりますよね。
那是不是说,在人生层面已经完成修行的人就是所谓的菩萨了?
それはもう人生レベルで完成させた人っていうのが付帯点の菩薩っていうことか。
是的,那个,就像在缅甸一直有那种给小孩
はい、それはなんか、あの、ミャンマーでずっとあの、子供、
做手术的人存在,对吧?
手術してる人いるじゃないですか。
啊,是的,是的,是的。
ああ、はいはいはい。
他大概是完全不会退缩的吧。
彼とか完全に不退転なんだろうね。
大概是没法放弃了吧。
やめれないですよね、もう多分。
我自己有时候也会想,为什么在做这种事呢,但如果不做这个的话,我活着也没什么意思了,因为他有着惊人的外科技术。
自分でもね、なんでこんなことしてんねんって思われることもあるかもしれないけど、いやでもこれしないんだったら俺生きてても、みたいな凄まじい外科の腕持ってるから。
如果在日本或者德国做的话,可能在美国做会变得非常有钱,但在缅甸是无偿做的,所以那种情况是不计分的吧。
日本とかドイツとかでやったら、多分めっちゃアメリカとかでやったら超大金持ちになれるだろうけど、ミャンマーで無給でやってるから、ああいうのは不採点なんでしょうね。
是的,我是这么认为的。
はい、だと思います。
不过,我也有过一瞬间,在设施快要崩溃的时候不计得失地坚持下来的经历。
でも、なんか一瞬だけ、僕、施設ぶっ潰れかけた時に不採点で続けたことありますね。
现在因为有了接替者感觉不同了,但当时没有后备人选,所以无法抽身,觉得很遗憾。
今なんか後釜がいるからちょっと感覚変わってきたけど、その時は後釜いなかったんで、これ退けないんや、残念って思い。
确实如此。
そうですね。
那种情况下,根本不存在放弃这个选项,是身不由己的坚持。
もうその、やめるっていう選択肢が持てない、持てなかった不採点。
但那种情况,不是由于外部结构导致的不得已,而是...
それでも、あれじゃないですか、その外的構造による不採点じゃなくて、それ。
啊,不过说实话,放弃反而会更轻松。
ああ、でも、いや、だって、やめた方が楽だったんですよ。
如果没有母性的慈悲心,恐怕很难做到不计得失的付出。
母体心と慈悲がないと、不採点、多分なれないですよ。
啊,原来如此。
ああ、そうか。
所以,有很多企业家因为有股东在而不能退出,对吧。
だから、株主がいて、やめれない起業家とかたくさんいるじゃん。
原来是这样啊。
そうかそうか。
那种情况我觉得非常了不起。
そういうのは多分僕すげー。
所以果然还是要用产假来拜访啊。
だからやっぱ産休の訪問使うんだよ。
那并不是不退转哦。
それは不退転じゃないのよ。
因为不是外部压力之类的。
外圧とかじゃないから。
只是无法放弃而已。
ただやめれないだけ。
只是无法退出而已。
ただやめれない。
作为现状来说,是无法退出的。
その現状として、やめれない。
而且,进一步说,那其实是可以退出的却固执着没有退出,原来如此啊,那个。
しかも、それは、もっもっというと、やめれるのに固着してやめてないだけだからなるほどですね、あれは。
不过相当不错。
でも結構。
不过这么说的话可能不对。
でもそれで言うと違うかも。
只是,可能没有正确认识到现状。
ただ、現状認識ができてなかったかもしれないです。
说到底,虽然不清楚辞职后会怎样,但当时是出于慈悲之心吧。
要はやめたらどうなるかを正確にわかってなかったけど、慈悲の気持ちがあったね。
慈悲。
慈悲と。
还有我心中的那种感觉,说是朝着开悟的方向吧,其实也不算开悟对吧。
あと僕の中でのあれがあったなんか悟りに向かってる感覚というか、悟りじゃないですよね。
不过我能理解,确实能理解。
でもわかりますわかります。
是下回的事对吧,关于下回,我想股东们应该也不会在意,虽然觉得道歉后用其他方式处理更好,不过对我来说倒是无所谓,原来如此,这就是不退店啊。
次回系ですよね、次回系で、多分、株主も別にね、ごめんなさいって言って、別の形でやった方がいいなと思ってたけど、まあまあそれは僕はいいとしてなるほどな不退店です。
我以为是不会退店的意思。
不退店と思ってた。
我认为应该是不退店的状态。
不退店的だと思います。
那个啊,当时的情况嘛,能获得这种概念的话,心境描述的清晰度就提高了,挺好的。
それはね、当時のやつはね、まぁまぁこういう概念が獲得できるとなんか心境説明の解像度が上がっていいですよね。
不,挺有意思的,这真的关系到公司的事情,不过现在修行有点乱套了啊。
いや、面白いな、これは本当に会社のことを、とか、でも今ちょっと精進が狂ってんな、とかね。
因为周转率不够所以不行吧,但那个和大蒜没关系吧,之类的。
回率がないからダメなんじゃないかとか、それニンニクないよね、みたいなね。
就是说,光是拥有这些词汇,就相当不错了呢,听到了各种各样的事情,基本上全都听说过。
っていうなんか、その語彙を持つだけで、で、ずいぶんそうですね、いろんなことが聞いて、だいたい全部聞いたことあるの。
很厉害对吧,无论是布施还是自戒。
やばいですよね、その布施も自戒もさ。
虽然大蒜有点那个,但精进、全成、智慧这些词不都听说过吗?不知道不是很厉害吗?
ニンニクはちょっとあれだけど、精進も全成も知恵も聞いたことあるじゃないですか知らねえのすごくないですか。
是啊,就是那种自以为知道的类型呢,在脑子里擅自觉得大概是这样,然后以某种被赋予了深刻意义的状态传达过来。
まぁねなんかその、知ってる気になってる系ですよねなんかこうだろうって勝手に頭の中でモワッとして、すごい意味が既存された状態で伝わってんだなっていう っていう。
原本就是。
もともと。
但原来是佛教用语啊。
でも仏教用語だったんだなみたいな。
佛教真的很有力量呢。
本当に力を持ってたんだね、仏教は。
考虑到翻译东建时期的六波罗蜜等经典时应该已经理解了,当然如果能非常清晰地将其作为自己的行动准则就好了。
東を築いた頃の六波羅蜜とかを翻訳してた頃とかっていうのは理解してされてるでしょうから、もちろんこの辺をものすごくクリアに、本当に自分の行動指針にしたらいいんだなって思ったら。
这样基本对各种事情都不会迷茫,做决定的速度也变快了。
結構あらゆることに迷いがなくなるし、決断のスピードが上がりますよね。
确实很难创造出比这更好的东西了。
ありますね、これ以上のものを作るのも難しいですしね。
确实是个框架呢,好的,非常感谢。
確かにフレームワークをね、というはい、ありがとうございました。
最后,就像那种'今天就能用上的佛教'的感觉等着。
最後、もう今日から使える仏教みたいな感じで待って。
用这么轻松活泼的方式总结出来。
そんなバリバリライトにまとめる。
'3分钟了解,今天就能用上的佛教'。
3分でわかる、今日から使える仏教。
大家也要记住这个带回去哦,很棒吧。
みんなもこれ覚えて帰ってね、いいね。
然后点击。
とクリック。
没有点赞之类的功能哦。
いいねとかないよ。
类似这样的呢。
みたいなね。
哎呀,真是太厉害了。
いやーすごかったですね。
我学到了很多。
勉強になりました。
非常感谢大家。
本当にありがとうございました。
哎呀,我这样听下来已经收获很多了。
いや、俺なんかもうだいぶこうやって聞いてきたじゃないですか。
不,内容本身就很精彩,我也学到了很多,但最让我佩服的是,龙玄先生完全没有看稿子就能全程流畅讲述,这真的很厉害,让我觉得这就是龙玄先生的相扑之道吧。
いや、いろいろ 内容もすごかったし、学びあったけど、何が一番すごかったかって、台本一切見ずに全部喋ってるのすげーって普通に龍玄さんのが、それがやっぱ龍玄さんの相撲ってそういうことなんだなっていうふうに。
我看着龙玄先生,非常感谢您。
僕は龍玄さんを見てて、ありがとうございます。
太厉害了。
すごい。
确实,要是被一边看书一边说的话,确实会有点反应不过来呢。
確かに本読まれながら言われたら、ちょっと おってなりますもんね。
完全不需要任何准备,今天想说什么就能说什么。
もう一切だって何もフラッと、今日何しゃべれます。
大概多少分钟呢?
何分ぐらいですか。
就算说今天要讲五、六本内容,也只是回答‘好的’就轻松应对了,这说明平时经常在各种场合演讲对吧。
って言って、今日 5 本、6 本になりますって言っても、はいわかりましたぐらいの感じでスッと入ったから、なんかこれを普段いろんなところで、だから喋ってるってことですよね。
如果连这个都做不到的话,就完成不了作为僧人的职责了吧。
これができなかったら、お坊さんとしての役割は果たせないですよね。
我跟随学习过的那些西藏、缅甸的老师们,全都是这样的。
僕が習ってきた、そのチベットとかミャンマーの先生たちって、みんなこうです。
突然到访就能侃侃而谈,还能写出令人惊叹的精准内容。
いきなり行って、パッて喋って、とんでもない精度のことがスカーンって書いてくれる。
哇,太厉害了。
うわ、すげー。
不,所以说,我觉得那些东西能记在脑子里什么的也超级重要,你看现在用互联网查什么都能查到,根本不用记。
いや、だから、なんか頭の中に入ってるとかもめちゃくちゃ大事な気がしましたなんかよくなんかあの、今もインターネットで調べれば全部出てくるし、覚えなくても。
现在虽然有很多工具可以用AI生成内容,但我觉得关键在于能把知识记在脑子里,瞬间就能组合输出。
もうなんかいろんなツール使って AI で出てくるからみたいな話あると思うんですけど、頭の中に入って一瞬でそれが結合してアウトプットできるとかが。
所以像三藏法师他们,就是因为完全背下来了才能做到那样啊。
だから三蔵奉仕とかって、本当に暗記してるからそうなんですよ。
我现在说的这些很糟糕吧。
やばいんでしょうね、今の僕の話は。
那个,怎么说呢,他们会带着明确的出处、引用页码和行数来说明的。
その、何だろう、明確な出典とか、その引用ページ、行数付きで言ってきますからね。
他们那些人超级可怕的。
彼らはめっちゃ怖いですよ。
就是这么回事对吧。
ってことですよね。
那个,大概是你一问,它就能带着准确的出处,像连珠炮一样给你回答回来的状态。
その、多分、問答したら帰ってきて、その正確な出典付きでボンボン返してくるみたいな状態。
还有,我遇到的那位三藏的,寸伦长老就是这样的,不管问什么,他稍微想一下,就会说那是某某教的第几章第几页第几行的内容,我现在给你念。
あと、僕が出会ったその三蔵のね、寸倫長老っていうのはそうでしたからね、何質問しても、ちょっと一瞬考えて、それは何々教の何章の何ページ目の何行目のところからで、今唱えるね。
然后就开始哗啦哗啦地念出来,说上面就是这么写的。
つって、バーって唱えて書いてあるからって言ってくるんですよ。
哎呀,这到底是什么啊。
いや、いやなんじゃそれ。
确实会变成这样呢。
ってなりますよね。
不,那个人大概就是阿马拉吧。
いやもう多分その人アマラっすね。
真的和某种东西连接着。
本当なんかにつながってる。
已经全部知道了。
もう全部知ってます。
大概连接上了那个,所以现在能访问服务器了。
多分何かつながって、あの、だからサーバーにアクセスしてます。
不过那简直是怪物般的记忆力啊。
いや、でもバケモンみたいな記憶力ですよね。
那个确实厉害。
あれはすごい。
真的,那个部分让我特别感动。
本当にいやなんかね、もう、そこが僕なんか本当に感動しました。
好的。
はい。
那么这次总共5回...不对变成6回搞不清了,应该是5回吧。
ということで、これ全 5 回、6 回わかんなくなりましたけども、5回かな。
总共5回。
全 5 回です。
嗯——这样应该可以了吧,主要的内容应该都传达清楚了。
いやー、いいかな、これでね、一旦だいぶ伝わったかな。
应该传达得相当充分了吧。
かなり伝わったんじゃないですか。
这样的话就很好呢。
これだといいですね。
到目前为止,我们谈论了现状篇、空海最澄篇、最澄空海篇,还有元次篇等内容。
今まで現状編だったり、空海最澄編、最澄空海編だったり、元次編だったりで喋ってきたことを。
所以说啊,果然只有佛教的分辨率特别高呢。
だからね、やっぱ仏教だけ解像度高いんですよ。
正因为有这样的因果,我们才会在日本出生、在日本长大,所以认识汉字之类的。
そういう因果持ってるから、我々がやっぱりこう、日本に生まれて、日本で育った漢字とか知ってるじゃん。
这些词不是早就全都知道了吗。
もう全部知ってる言葉だったじゃん。
没错吧,要是换成伊斯兰或者天课这些词,第一次听到就会觉得挺陌生的。
そうだよね、これがイスラムとかザカートとか言われるから初めて聞くみたいになると、結構ってなるわけですよ。
嗯,要渗透进去是需要时间的。
あの、浸透するまで時間かかるから。
果然佛教更容易理解所以越聊越深入,其他宗教是不是得重新讲一遍。
やっぱり仏教だと理解しやすかったから深くなっちゃったんで、他の宗教もう一回やんないといけないか。
或者我们可以再次邀请他们来做第二季密教篇。
なお、それかもう一度お招きしてシーズン2を密教編。
感觉要变成全宗教电台了。
全部宗教ラジオみたいになりそう。
可以啊,就是宗教电台嘛。
ありだね、宗教ラジオだよ。
那个形式本身我倒也想尝试一下。
それはそれで1個ね、やりたいですけど。
那么就这样。
ということで。
不,真的非常感谢您今天抽出这么长时间,我们才要感谢您精彩的解说。
いや、めちゃくちゃ本当に長い時間、こちらこそ素晴らしい改造とありがとうございました。
谢谢大家。
ありがとうございました。
再次感谢我们的嘉宾,实验基因报道时总委员长松波龙玄先生。
ゲスト、改めて実験ジーニー報道時総委員長の松波龍玄さんでした。
谢谢。
ありがとうございます。
非常感谢。
ありがとうございました。
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